100年前のボクシングの構えをみて、現在伝わっている古武道の構えにあまりにソックリなので愕然としたという古武道家がいました。その人は実践第一主義で、強くなければ意味がないという考え方の持ち主。毎日ケンカに明け暮れていたという困った人です。
その彼が修行中、ひょんなことでボクシング部の主将と対決するハメに陥りました。
当時、彼は、ボクシングなどという柔な西洋発の競技など、日本の武道に適うわけがないと硬く信じていたらしい。それで、ボクシングのルールでやったろうじゃないかと、啖呵を切ってボクシング対決になったというもの。今ならその無謀さは、少しでも格闘技を知っている者なら分かるのですが、その当時は昭和30年代ですので、まあ、勝つことを確信していたのだそうです。
さて、実際やってみると、面白いくらい、自分の突き(拳)がかわされてしまう。そして面白いくらい相手のパンチを貰ってしまう。結局、ボクシングでのルールでは完敗してしまった(当然だぁ、しかし何でもありのルールなら彼のほうが強いのですが)。
彼が偉いのはマジで世界一ケンカが強い人類最強を目指していたので、偏見と先入観を捨て、ボクシングを研究したということに尽きます。
その結果、冒頭でご紹介した資料(写真)を発見して愕然となったわけです。
100年前、ボクシングが発祥した時分には古武道に極似した構えだったものが、いかに相手にパンチを貰わず、自分のパンチを当てるかという課題にボクシングが取り組んだ結果、現在の構え、フットワーク、打ち方に進化してきた事実、そう!進化してきた事実を知ったわけです。それで、愕然としたわけですね。百年遅れた技術で対抗しても勝てるわけがない。相手は百年先にいっているわけですから。
勿論、彼はボクサーになる気はさらさらなく、あくまでケリもパンチも何でも使うケンカ世界一が目標ですから、ルールに限定され過ぎたボクシングの技術に深入りすることはなく、偏見と先入観を捨てるにいい経験だったと述懐しているわけです。
格闘技といっても身体動作に変わりはなく、技術が主体になることは変わりません。ある目的において技術というのは進化します。ある部分が進化すると、それに対応して違う部分も進化します。その違う部分が進化すると、また別の部分も進化して・・・・全体が進化するという特性を持っているものです。しかし最適適応した結果、進化の袋小路にも入ってしまって、もうボクシング以外の格闘技には対応できなくなるのも事実です。生物界では恐竜もそうで、環境に最適適応した結果、環境の激変に耐えられず、絶滅してしまいました。哺乳類はまだ進化の極みには達していなくて生き残り、現在の人類を生んだことは周知の事実です。
生物界の進化については蛇足でしたが、技術的な進化というのはこのように連鎖反応が起きて、全体のレベルを押し上げるものなのです。
昔の職人の技術の高さに驚きの声を上げるのはその技術が一時、途絶えたがゆえに起きるものです。継続し、多数の者が関わっていれば、昔の技術に感心するなどということが起きるはずもありません。伝承が途絶えたときのみにそれが起きるのです。(ピラミッドしかり、古代ローマの土木技術しかり)
翻って、手技技術というものを見るとき、実は伝承の途絶つという事態が何度も起きております。特に東洋ではそうです。手技は結構大変なので、底辺を支える才能ある施術者の絶対数が少なかったという事情があるかもしれません。
テニスやボクシングのように途方もない数の人間が関わり支えていくならば、その中で天賦の才に恵まれ、努力を惜しまない者、つまりトップレベルでは信じがたい進化が起きていくものなのですが、いかんせん、手技は絶対数が足りなかったというのが現状でしょう。
なんども途絶し、その度に新たな天才によって再興される、という循環を繰り返す中でしかその命脈を保つことができなかったわけです。
これからは様相を異にします。絶対数が増えてきて、職業的手技法家が増えるにつれ、その分、才能ある人たちも増えていくことになります。そして、それがある一定数に達し、その状態がある一定期間続くと、進化が始まる沸騰点に達するはずです。
技術的ブレイクスルーも起きるでしょう。
しかし、手技というのは技術というテクニカルな面と同時に芸術的な感性的な側面によっても構成されていて、単なる技術の進化だけでは括れない部分もあります。
技術的なことはともかく、彼(彼女)の施術を受けると、他の人にはない安らぎを得られるとか、気迫を感じるとか、評されるそれです。
これは、施術家一人一人が持つ個性が被術者の感性とピタリと一致したときのみ起きる現象で、ある意味、技術論では説明できない感性的側面が含まれる所以であることを示しているわけです。
音楽が好きだと言っても、ロックが好きな人、演歌が好きな人、クラシックが好きな人、様々です。音楽は演歌しか聴かないという人が、クラシックを聴いて、指揮者による微妙な解釈の違いを感じ取れるか疑問です。同じように好みが偏向している受療者に対して、その好みから逸脱した手技を加えても、それがいかに技術的高度なものであったとしても、正当な評価を下すことはまず考えられません。
競技であれば、ルールに則って戦えばどちらが上か簡単に分かるわけですが、手技は毎回ルールが違うスポーツのようなもので、被術者が違えばルールが違うというまことに複雑なものだと思うわけです。だから、世界手技法選手権試合などというものは存在し得るはずもなく、仮にあったとしてもさほど意味のないものとなってしまいます。
単に技術的な問題ではないが故に、技術軽視という事態にも陥りやすいという問題点を内包していて、手技技術の進化を止めてしまう要因さえはらんでいるわけです。これらはあくまで、バランスの上で考えていくという知的能力がある一定の水準に達していないと、容易に抜け出せない落とし穴です。だからこそ、絶対数が必要になってくるわけです。母体数が大きければ、それだけ優秀な人材にも恵まれるということは当然ですから、その分、そこのバランスをよく理解できる人たちも増えてくるに違いありません。
ボクはヒトに教えることも生業としている人間ですが、いつもこのバランスを考えています。具体的には、ある程度教えたら、何も言わないでじっと施術する姿を観察します。
ああ、この人は技術的に飲み込みが早いな、とか、角度は狂いがちだけど、包み込むようなリズムがある人だ、とか。よく分からないけど全体に癒しのオーラが出ていて、人の痛みが分かる人だな、とか。教えている技術が感性に合わないのか、あまり真剣に取り組んでいないようだな、とか。凝視し続けますと、その人の考えていることまで分かります。人はそれぞれ違う個性を持っているので、なんとかその人の個性が生きる形で教えようとします。クラシック音楽のような施術をするタイプに演歌を無理やり教えても、訳が分からず脱落するでしょう。技術的水準がある一定のレベルに達していないのに精神論的共感のあり方を述べても実感が湧かず、これもまた脱落する原因にもなります。だから、教え方の重点が一人一人違ったりもします。
これはマスプロ教育ができなくなった明生館の塾形式での教授法になってから気づき実行しているものです。しかし初期の頃はわりと画一的でした。もっと酷かったのは若い頃で、その人の個性、感性など一顧だにせず、あるやり方を押し付けていたのが現状でした。冷や汗ものです。
長くやっていくと、技術も変わりますし、感性も変わっていきます。しかし、本性は変わるものではありません。少なくともこの業界に入ろうとする者は、他人を癒してあげたいという本質的な優しさがあると思います(ごく一部を除いて)。長い経験の中でそう感じます。事業家が冷酷非情な一面がないと事業家として成功できないのはどんなオタメゴカシを言っても事実だということが分かる年代になってきました。したがって、一流の施術家であって、かつ一流の事業家であり得るということは基本的にありません。この業界に入る方々の優しさという一面を個性や感性は違うといえども生かす方向性というものを模索する日々ではあります。
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