そういうことはどうでもいいことなので、話を戻しますね。
整体の基本概念がリリースとインプット、東洋的な表現をすれば、補瀉(ほしゃ)につきるのならば、それをどう具現化していくか、ということが難しいわけです。
それは身体の評価を伴うので、さらに難しさが増すということにもなるのです。
その前に手技が身体に与える効能、というか効果というか、そういうものを定義しなければなりません。
実はこれについては、どんなに技法や体系が異なっていても、ほぼ一致した見解をみることができます。
即ち、その人(クライアント)の持っている自然治癒力を高める、もしくは引き出す、ということを最大の目的にしているのです。ですから、定義としては、ヒトのもつ自然治癒力をマックスまで引っ張り出してあげる、ということに尽きるわけです。自然治癒力という言葉を嫌い、自己治癒力、自己修復力と言い換える流派もありますが、同じことです。
この自然治癒力が発動する機会を妨げているsomethingを除去することをリリースと言い、発動するにエネルギーの不足がある場合はインプットと言うわけです。
東洋的な表現では前者が瀉法、後者が補法となることはいうまでもありません。
そこまでは一致しています。定義は一致しているのですが、それぞれの流派の考え方の違いによって、アプローチの違いが出てくるわけです。
例えば、スペシフィック・カイロやその影響を受けた民間療法家などは脳幹部に全ての自然治癒力発動エネルギーがあると考えます。言わば、自律神経インパルスの阻害によって自然治癒の発動を邪魔していると、考えているわけですね。そして、その阻害要因のほぼ全部が環椎と軸椎の歪みであると断ずるわけです。ここが歪むと、脳幹部から発せられる自律神経インパルスが、もうその部分で阻害されるわけですから、全体にいきわたりません。結果、正常じゃない状態が生まれてくると。
臨床上、確かに環椎、軸椎の歪みを持つ者は多いので、頷ける部分があります。環椎、軸椎の転位、変異を除去するという意味において、優しく、無痛な手技であっても、それはリリースであり、瀉法ということになります。
では、脳幹部のエネルギーそのものがすでに不足している場合はどうするのか?
そういうことはない、と考えます。脳幹部は生まれ出でた時にすでに完成されたハードでもあり、完全なソフトが組み込まれていると。もし、そのエネルギーが不足しているのなら、すでにこの世にはいないか、重篤状態なので、手技法家が相手にするクライアントの対象外であると考えるわけです。
さて、ここで考え方が分かれるのです。そういう状態がホントにないのであれば、脳に対するアプローチは必要がないでしょう。しかし、あると考えるのなら、脳に対するアプローチが必要になります。
医学的な証明の範囲を超えている問題なので、これはまさに考え方次第であり、何度も言っている施術者個人の好みと感性の問題なのです。
ボク個人としては、脳幹部のみならず、脳全体のエネルギーが不足している状態があり得るし、環椎、軸椎だけが、自律神経インパルスの阻害要因ではないと思うわけ。しかし、前述のように首の部分で阻害されている症例も多いので、クラニアル・マニピュレーションを行う場合は必ず、首の施術を行わねばならない、と考えるわけですよ。
これは多分に東洋医学の影響を受けているせいなのでしょう。
前述のように、ボクの中では、整体の基本概念にリリースとインプットが2大柱として存在しなければならない、と堅く信じているからです。即ち、補瀉の概念です。
転位の除去だけなら、瀉法のみになります。折角、脳幹部に目をつけたなら、瀉法のみならず、不足を補う補法がなければ、片手落ち、というものではないか?というある意味、情緒的な判断が働くわけです。やはり、最後、理屈ではなくなるのです。ただ、東洋医学は数千年にわたって続いてきた経験医学ですから、そこから導き出す結論に大きな瑕疵はない、という動機とともに、自身の施術経験からのものですから、その判断には自信を持っております。
ボクがクラニアル・マニピュレーションに興味を持ったのは、頭蓋縫合部分での拘束除去、即ちリリース(瀉法)がある一方で、脳そのものにエネルギーを送るインプット(補法)の両方があるという一点です。その技法の中で、補瀉を同時に行っているところに惹かれました。やはり、どうしても東洋医学的な発想から逃れられないようです。
構造医学に興味を持ったのも同じ理由です。
軸圧という、関節に対する生理的な圧を加えることによって、関節液の分泌を促す、これ即ち滑液の不足を補うという補法となります。と同時に、関節の転位を除去するという瀉法が軸圧をかけたまま行われるので、これぞ、まさしく補瀉一体の技法です。
リリースとインプットが同時に行われるなんて、凄いじゃないか!と思ったものです。
創始者は東洋医学の補瀉の概念を知っていたかどうかは知りませんが、少なくとも、ボクは補瀉の概念から興味を持ったわけ。実践で試したら、ある種の人たちには大変な効果があるということが分かりました。理屈から入って、実践で効果があると分かると、楽しいものです。
その他、優れた療法、効果のある療法もあるでしょうが、補瀉の概念を具現化している体系を持つものがありません。だから、どんなに良いといわれている療法でも、ボクの琴線に触れるものがなく、つまり、興味が湧かないわけです。
まさしく、個人の好みと感性の問題ではあります。
続く・・・
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