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人間は考える腸である

腸を専門に研究している有名な医学者の言葉です。
最近、色んな意味で腸が注目されていますね。
腸相で分かる寿命とか・・
一見、正当医学から外れているようないないような・・・・

腸については8年くらい前に「医道の日本」という東洋医学系専門誌に論文を投稿したことがあります。
題名は「腹診、腹証の意義」
日本では「腹証」という独特な診断法が発達してきた歴史があります。
お腹に対する感覚は世界の中でも最も豊かな感性を持っている民族なのかもしれません。
そういうところから話が始まり、発生学的に言っても、腸は最初に出来た臓器であり、腸が発生したことにより、脳が必要になった、という趣旨の論文でした。
そして腸は第2の脳というものではなく、脳の母ではないか・・と。
そこに関連性がないわけがない、とも。
英語でも「腹の底から湧き上がってくる感情」のことをガット・フィーリング(小腸からくる感じ)というのだそうです。
東洋医学の経験知は心-小腸を陰陽関係として捉え、表裏一体のものと考えます。
(この場合の心はココロのこと)
ガット・フィーリングは万国共通で感じていたものなのでしょう。

一流の専門学者が言っていることを聞くと、8年前にボクが書いた論文をそっくりなぞっているような錯覚にとらわれます。
(盗作しやがったな)などと考えるのは被害妄想。だって相手は専門の学者ですからね。素人の意見など無視します。だいたい「医道の日本」なんていう雑誌は読まない。
まあ、でも自分が8年前に言ったことが今、大真面目で議論されているのを聞くと、結構自尊心をくすぐります。

そんなこたぁ8年も前にオイラが言ってんだよぉ、とちょっと品のない語彙で呟いてしまうのでした。

日本の腹証とはちょっと違うのですが、オステオパシーでも内臓マニピュレーションという手技があります。この手技はどういうわけか、各内臓に感情が宿るという前提で行われます。こうなると六臓六腑に感情を配当した東洋医学の前提となんら変わりません。
言い方、名称、アプローチの違いを超え、自然療法は洋の東西を問わず、ある一点に収斂していくのではないでしょうか。少なくとも、現代医学との視点とは一線を画し、ヒトの持つ感覚、感性を第一義的に考えるようになるでしょう。

一方で現代医学は分析的、帰納的方法論に益々拍車がかかり、様々な未知を既知化していっています。そして、自然療法はそれらのことを取り入れながらも感性を重んずるという原点回帰への方向に向かっていて、なにやら面白い時代ではあります。

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継時性構造疲労症候群

前回、三水会で勉強した内容と若干関係します。

同名で施術百話-No27を更新しました。

ご覧になってください。

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歪み-完

パターン化の話は実際に見てやってみないと分からない部分も多々ありますからこれで止めておきます。

仙骨自体の話をしてみたいと思います。
前のブログで仙骨は成長過程で癒合し、一枚骨になると述べました。
仙骨模型をみても、実際の人骨の写真を見ても、まぎれもなく一枚骨になっております。
ところが、MRIで脊椎全体を横から撮影した写真を見ると、腰椎や胸椎と同じように、椎骨と椎間板が写り、ほぼ完璧に分離されているのでした。
ちゃんと、仙骨に五つの骨を確認できるので驚いたものです。
表面上は一枚骨ですが、内部では依然、五つの骨に分かれているわけです。
これはある意味、衝撃的な出来事でした。
何故なら、仙腸関節ではなく、仙骨自体が歪む可能性を示唆していたからです。
勿論、成長過程で歪み、そのまま癒合する場合もあるでしょう。
それよりも何よりも成人してからでさえ、歪む可能性があることに気づき、愕然としたわけです。

さらに拍車をかけたのはクライアントの証言でした。
仙骨自体の治療を行うところがあるらしく、そこでそのクライアントさん、仙骨以外触れることなしに猫背や受け口が治ったという話です。にわかには信じられない話ですが、先にMRI写真で見ておりましたから、あり得るだろうな、という感慨が湧いたものです。
仙腸関節ではなく、仙骨治療だけで、背骨が音を立てるかのように、バリバリと矯正されていき、それに伴い、受け口(軽いものだったらしい)が治っていくというのはその原理を医学的なエビデンスに求めることはできません。
しかし、気功の小周天理論などでは説明できるものかと思います。
となれば微細なエネルギーのブロックが発生している箇所ということも言えるわけで、それが仙骨自体の歪みの正体だということになるわけです。
また、それほど強力に効いた療法ではありますが、下肢の歪みには無効であったという証言からも小周天原理が働いていたという傍証にはなるでしょう。

当然、この原理を働かせるには無痛でなければなりません。小周天、つまり、督脈、任脈の気の巡りは有痛ではかえってブロックしまうからです。

施術だけに関しては、ネコなみの好奇心があるボクのことですから、色々試してみたのですが、手技で行うには超強力な気の持ち主か、20グラム~30グラム圧で20分位押さえ続けねばならない、という結論に達しました。
これは実践上、問題があります。
まず、強力な気を発するというのは、施術者の体質の問題ですから、普遍的ではありません。また20分も同じところを触る程度で押さえていたら、いくら説明してあったとしても、不信を招きます。かなり感受性の良いクライアントでないと許してくれないでしょう。

全体の施術の流れの中でそれらを行うにはどうしたら、良いのか?
色々アイディアを練っている最中ですが、検証中なので、発表できる段階ではありません。
近々、完成するのではないかと思います。

いずれにしても、仙腸関節、仙骨は骨格の中の要です。
そしてそれを支持し、収まるべきところに収めている役割は股関節にあるわけです。
これらの問題を単独ではなく、システィマティックに解決する方法論が強く求められている昨今ではあります。

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歪み-6

仙腸関節の歪みは体幹部のズレを生じさせ、内臓の位置異常を招きます。結果、その歪み方のパターンによって、固有の内臓異常を発生させるのです。これは構造医学の知見なのですが、臨床上、確認できることが多く、優れた洞察力だと感服します。

操体法の橋本博士はヒトにパターン化できる歪みなどなく、千差万別であると述べております。これはフルフォード博士の「万人に共通するルールなどない」という見解とも一致し、これもまた臨床上実感できる次第。
一体、どちらに共感しているのか、と怒られそうですが、一見矛盾するような意見にも、行間を読まねば言いたいことの本質を掴むことができないということもあるわけで、矛盾だとは思いません。文章で表現できることには限界があるのです。
ある程度パターン化できる歪みと固有の歪みがあって、前者に重きを置くか、後者に重きを置くかによって、表現形態が変わってきます。

基本的な損壊パターンがある一方で固有の歪みもある、というのが真実だと思います。
ヒトはそれぞれ生きてきた歴史というものがあります。あるヒトは交通事故に遭い、ムチ打ちになったのかも知れませんし、あるヒトは小学生の頃、側湾症になってしまったのかもしれません。そうしたものは個人固有のものであり、全てを足からくる歪みと断定するわけにはいきませんし、仙腸関節ありき、というわけにもいかないのです。
しかし、ある歪みが、原因はともあれ、生じたとするなら、そこに留まることなく、他に影響を及ぼすことだけは確かであり、そしてそれらにはある程度推測可能なパターンが存在します。現れている症状は千差万別であっても、歪みは特定できるのです(それを治すことが可能かどうかは別にして)。

そうしたことも頭に入れ、基準をどこに置くかということが、その療法の本質的な性格と言えるのでしょう。

続く・・・・

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歪み-5

前回、足裏を見れば評価できるといいましたが、実は、誰が見てもというわけにはいきません。足裏だけで身体全体の評価をするのはパターンが多すぎて簡便ではないのです。
無数の可能性があり、その中で一つを選び出すのは、再現可能な検査という意味では無理があるでしょう。(勿論、述べてきたようにそれも悪くはないのですが)

膝だけで身体全体を評価するのも、そこから上につながるパターンが多すぎます。
ところが股関節は、かなり限定的なパターンで体系化できます。

股関節の基本的な歪みのパターンというのは80種類しかないことに気づきました。
全く正常というパターンも一種類ありますので、「歪みなし」を入れると、81種類ということになります。

三関節原理が真理であるなら、足裏の歪みは集約されて股関節に出ます。そのときのパターンが80種類なのです。
80種類でも多すぎやしないか、という意見もあるでしょうが、無数の歪み方を相手にするよりは限定されたパターンに集約し、対処できたほうが普遍的ではないでしょうか。

しかもこの歪みパターンを見出すのにたった2つの検査で済みます(一つは視認だけですから、実際に行う検査は一つだけです)。
また、誰が行っても同じ結論になるので再現性という意味では恣意的要素が入らず、客観性を保つことができます。
二つの見方で自動的に80種類の中から一つのパターンを選び出すことができますから、一つ一つ、80種類の歪み方を記憶している必要もありません。

組み合わせを含んでの80種類ですから、対応技法は還元すると4種類しかない、という特徴もあります。(勿論、補瀉を含んでいます)

誰か同じことを考えついていないか、ネットを使いあらゆる検索キーワードで調べましたが、股関節に80種類の歪みのパターンを見出し、それに対応する技法を作っている流派はないようです。

しかしながら、現れている股関節の問題を処置したとしても、依然、足、足裏、膝の問題が残っている可能性がありますので、股関節が全てではないのです。
やはり足の関節のギャビングを丁寧に取り除いていくことから始めねばならないわけです。
膝関節の調整も行わねばなりません。

そうしたことから、フット・マニピュレーションと呼んだのですが、正確にはレッグ・マニピュレーションなのかも知れません。(ただ、足裏操作が入りますのでレッグと呼ぶには抵抗がありました)

80種類の歪みのパターンを見出したのは実はそれほど前のことではありません。
最初、一つ一つ列挙していったのですが、28種類までいったところで頭が混乱してギブアップ。しかし、パターンである以上、必ず解を出す整数式が存在するわけで、教育テレビの高校数学講座で勉強しなおしました。なんと、高校レベルの数学はとんでもなく高いレベルであったことが分かって愕然!どうやって中間試験や期末試験を乗り切ったのか、今でも謎です(そういえば高校の卒業式の記憶が全く欠落しているような)。まあ、結論からいうと、中学数学の初歩で簡単に答えが出る問題でした。(ここまでバカみたいに時間をかけてしまいました)
片足に三つの歪み(正常を含む)の要素があって、それが両足の組み合わせになるのですから、3の4乗マイナス1=80種類ということになって、簡単に答えが出るのでした。
これだもスタンフォードに入れなかったわけだ(その前に英語がネックだったわ)。

さておき、股関節の歪みは即、仙腸関節の歪みを表出させます。
仙腸関節の機能は想像以上に身体に影響を与え、様々な愁訴の原因になることはご承知の通りです。当然、この調整に関する技法は数限りなく考えられてきました。
伝統的な骨盤矯正と言っても、詮ずれば、仙腸関節の矯正に他なりません。その他、構造医学、AKA治療も仙腸関節の潤滑を重視するわけです。
技法が異なると言えども、そこに目をつけているという考え方が多くあるということ自体、その重要性が分かるのではないでしょうか。

続く・・・

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歪み-4

もどかしいながらも、機会あるごとに勉強だけは続けていました。
そして三関節原理を知ったわけです。
これは脳髄直撃でした。
当たり前のことを言っているのですが、どうしてそんな当たり前のことに気づかないのか。
つくづくと自分の頭の悪さを実感した次第。
足は足というパーツとしての存在だけではありません。身体の一部でもありますが、それはシスティマティックにつながり、身体全体と連携し、活動しているわけです。切り離して考えること自体愚かなことです。
これは概念の問題ではなく、物理的に、力学的にそうなのです。
東洋医学を学びながら、実は何も理解していなかったということが露呈し、しばらくの間、落ち込んだくらいです。

しかし、その考え方を一度知ると、今までの蓄積は生きてきます。フラッシュバックのようにかつての症例が思い浮かび、疑問は氷解されました。
ヒトの身体は連続体であって、解剖学的に独立した部位であっても他の部位に影響を与えずにはおきませんし、他の部位の影響を受けないわけにはいかないのです。
三関節(足関節、膝関節、股関節)は特にそうで、ここのどこかが悪いと必ず他の関節も問題を内包しているわけです。これは臨床的に確信できます。

その人固有のライフスタイルなどにより、足の筋・筋膜に問題が発生します。それは意識できない程度かもしれません。しかし、確実に腱、靭帯に影響が及び、それらに支持されている小さな関節群がギャビングを起こしてしまうわけです。小さな関節群が多数存在するのは足ですから、最初、足の問題から、そして膝へ、股関節へといくケースが多いわけで、それを評価するには足裏を見れば分かります。
結局、反射区異常と言っても、それら、筋・筋膜、腱、靭帯の異常、そして関節群のギャビングを伴っているわけですから、本質的な改善をしようと思うと、刺激だけでは対応できなくなるのです。関節への対応が不可欠になってくることは間違いありません。

続く・・・・

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歪み-3

ボクは個人的に、足の施術からこの世界に入りました。結局、追い求め、頭のテッペンまで行ってしまったのですが、はやり、臨床数という観点でいえば、断然、足を診ている数が多いものです。

当時はリフレクソロジストなどというシャレた言葉もなく、単なる「足揉み小僧」ではありました。それでも反射区というものを基に施術を行っていたわけですから、言葉如何に関わらず、一応リフレクソロジストだったのでしょう。

さて、最初、反射区というものを教えられ、それに基づいて懸命に施術をしていたわけですが、技法そのものは勿論、反射区の評価をどうするか、ということに心を砕いてきました。つまり、自分なりの評価基準をどう作るか、ということです。

この世界では、有痛診断というものがあります。施術する部位に痛みがあれば、それに対応する反射区の異常がある=その臓器の異常と考えるわけです。
確かに有痛反応という現象はあります。まさにそれを指し示していることがあるのです。しかし、有痛反応というのは一種の感受性テストでもあります。この感受性というものは中々厄介なもので、ヒトによってあまりにも違いがあり過ぎます。また、施術者の恣意的な意図が介入する場合もあって、客観性という意味では、どうしても馴染めません。その反省からか、無痛診断という方法も出てきました。これは文字とおり、有痛ではない診断方法です。反射区の状態を見て、触って、異常を検知する方法論なのですが、相当な経験がいることは確かでしょう。これにボクはなるべく評価の差が施術者によって出ないように、全息胚診断という形で両足の差異に注目する方法に切り替えました。
しかし、これでも、絶対的基準と呼ぶには程遠く、評価者によってかなりのバラツキが見られます。そのこと自体が悪いと言っているのではありません。
述べてきたように、経験がものを言う、という評価法だってあるからです。

そういうことで自身を納得させていたのですが、あるとき、今まで何度も見てきた扁平足のクライアントを診る機会がありました。そこで、フト決定的な何かを見落としているのではないかという感慨にとらわれたのです。
人間、洗脳とまではいきませんが、最初に教えられたことから、中々脱却できず、幅広い考え方ができなくなるのは本質的な性なのかもしれません。
全てを反射区で考え、全て反射区に帰着するように考えていたのですが、少なくとも顕在意識の中ではそのことに何の疑問も湧かなかったのでした。
特にインパイアーしてくれる存在が身近にいませんと、ある考えからの脱却は難しいものです。

反射区とは何か?という簡単なことに気づいていないのでした。
教えられるままに反射区をそこに見出し、そう信じ、施術を行っておりました。しかし、反射区とは実体のない存在です。実在はするかも知れませんが、少なくとも、物理的に存在しているものではありません。概念なのです。
反射区異常というのは還元すると、筋・筋膜の異常でしょう。それが、何かの原因でシコリみたいなものができると、当然ながら反射区異常と解釈します。
実体は筋・筋膜異常とも言えるのですが、何故、そんな簡単なことに思い至らなかったのか?何故なら、そう教えてくれる人がいなかったからでもあり、ボクが鈍いバカでもあったからなんですが、いずれにせよ、概念を優先させ、そこに存在する実体を無視できる程に未熟(素直?)だったことは間違いありません。
扁平足のクライアントを診れば、うわぁ、酷い扁平足だ!外反母趾のクライアントを診れば、これまた酷い外反母趾だぁ!くらいの感想です。
そこには必ず構造的な欠陥があるにも関わらず、それを診ようとせず、反射区だけで解釈していたのです。

扁平足の足をシミジミ診れば、当然ながら、2種類の型に分かれます。
一種類はアーチが下がっておらず、筋肉が異様に発達しているタイプ。もう一種類はアーチそのものが下がって、中にはほとんど消失しているような例もあるタイプ。
前者はスポーツなどの経験者が多く、特に問題はないのですが、アーチが下がっているタイプというのは問題です。クッション、バネの機能がなくなるからです。
どうしてこんなことが起きるのか?
生まれつきの場合もあるでしょうが、生まれつきであっても、構造上の問題を掴まないで、しょうがない、と言えるわけがありません。
卑しくも足を扱う施術者が構造的にそれを説明できず、全て反射区で説明してしまうのはどうなんだろう?という自我の芽生えみたいな、そんな時期にぶつかったわけです。
当然ながら、足の構造を勉強し始めます。しかし、如何に?という理解はできても何故か?に対する答えが出ません。
体系化できないのです。
これは実にもどかしい。

続く・・・・

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歪み-2

虚と実は言葉を変えれば、不足と有余ということになるのですが、前述のように、生体に関してだけ言えば、自然治癒を妨げている要因を概念的に表しているものと言えるでしょう。不足があって生命力が全身に行渡らない、という現象と、除去しなければならない何かがあって、生命力が行渡らないという場合がある、そのことを言いたいわけです。

それを解決する方法として前者を補法、後者を瀉法というのは述べてきたとおりです。
極めて概念的なものですので、この解釈は専門家でも分かれるところです。しかも、技法さえまるで反対に解釈する場合さえあります。
それでも、そこそこ害なく行い得るのは、虚の中に実あり、実の中に虚あり、だからとも言え、難しい概念ではありますが、生体の揺らぎを指し示しているのかもしれません。

このことを追求していけばキリがありません。哲学的な論争のような状況を呈してきますから、止めておきましょう。

実践的に考えると、虚と実が同居している箇所があります。
不足と有余が同時にあるなんて、常識では考えられないのですが、まあ、東洋の英知というのは凄いもので、そういう状態を予め想定して、虚の中に実あり、実の中に虚あり、と言っていたのかな、とさえ、思ってしまいます。
具体的な身体の部位で言えば、関節内です。
少なくとも、病的な状態、そこまでいかなくとも正常じゃない状態は、不足と有余が同時に存在しております。これを知るまで、虚の中に実あり、実の中に虚あり、などまるで実感が湧きませんでした。一種の言葉遊びか、ヒトを煙に巻く論法なのか、くらいの考えでした。

関節、若しくは(※)関節に準ずる部位に働きかける考え方の手技法は数多く存在しますが、それぞれ、技法の違いを超えて、ある一定の成果を出しているところをみると、虚中の実、実中の虚という部位であることが分かります。

滑液の不足とズレ、ズレるから不足するのか、不足するからズレるのか、これはケースバイケースで一つを選択できないのですが、現象論でいえば、間違いなく、不足し、転位している状態、つまり虚実同在が関節異常の実体なのです。

そこから様々な問題が派生し、関節とはまるで関係のない症状であっても、関節操作によって良くなる場合が数多くあります。それぞれの理屈はあるのですが、力学的に言っても、エネルギー論から言っても、関節の存在は人のあり方の根本を決める要素ではありますから、そういうことがあっても不思議ではないでしょう。

普通、身体の歪みという場合はこの関節の歪みを指すことになるわけで、ほとんど同義と考えていいと思います。進行すると骨自体が曲がることになりますが、骨が曲がるというのは関節での応力吸収の限度を越えた場合に起きる現象です。(骨自体の病気は除外されことはいうまでもありません)

※関節に準ずる部位=例えば、かつて関節であったものが成長過程で癒合し一つの骨になっている部位、仙尾骨が代表的なものとして挙げられる(仙腸関節とは全く別)。頭蓋縫合部は関節に準ずるものではなく、まぎれもなく関節そのもの。

続く・・・・

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歪み-1

ある施術家がHP上で身体の歪みを否定しておりました。
例えば、右足が左足に比べ3センチ短いとする。3センチくらいの差がある人など、ザラにいるわけで、それでも正常な日常生活を送っている人がたくさんいると。勿論、不調をかこっている人もいるわけですが、その人に対して、3センチくらいの差など一瞬で矯正できるのでやってあげる。さて、両足の長さを揃えました。どうですか?身体の痛みは取れましたか?全然取れてないでしょう。だから、歪みなどという概念はマヤカシに過ぎないのです・・・とクライアントに説明するのだそうです。
また、背骨の歪みが万病の原因であるならば、セムシの人は即死してなきゃならないのだそうです。

つまり、ほとんどの整体は幻想とマヤカシの世界で自己満足している偽者だという主張です。(自分だけが本物という意味でしょう)

ボクは、日々、クライアントに相対し、懸命にその人を良くしてあげようとする施術家には考え方の違いを超え、敬意と共感を覚えるものですが、わずかなエビデンスで他を一切否定しようとする施術家には怒りさえ感じます。また人間的にも信用できません。いかな実績を挙げていようとも、共感することは全くありません。
何故、ボクのように好みと感性の問題だと素直に言えないのでしょうか。

ある一定のレベルにある施術家なら、歪みには代償的作用によるものがあると認識するのは常識ですし、よって歪みがタダチに不調を現出させるものではないということも常識として知っています。また、ある原理に基づかないと、足の長さだけを揃えても無意味であることも知っています。他の施術家はバカだとでも思っているのでしょうか。

勿論、人間は正確にシンメトリーであるはずはなく、左右対称であることはありません。
しかし、然るべき理由があって、その歪みが現出されているならば、何故、その歪みが出ているのかを考え、その歪みをとる最善の方法とは何かを考えるでしょう。決して、直接的方法だけが矯正技法ではないのです。
その人がその人の採用する技法で施術を行った結果、足の長さが揃ったらどう説明するのでしょうか。それでも足の長さは関係ない、と言うのでしょうか。
クライアントの本質的な問題に迫っていって、足の長さが揃うのと、単に足を引っ張って無理やり揃わせるのとでは、現象は同じでも意味が全然違います。ですから、彼の説明はフェアーな言論とは言えません。

今たまたま、足の長さという歪みの一つを例に挙げましたが、歪みには様々な形態があります。その歪みは何を表すものなのか、その人にとって、どういう意味を持っているのか、そういうことを考えるのが施術家の仕事なのです。確かに、歪みは残ったまま、症状が良くなることもありますし、歪みは消えているのに症状が残っている場合もあります。しかしそれ自体が何を意味するものなのかを考えるのです。
そう言った意味では、歪みを治しさえすればいいとする風潮に警鐘を鳴らしているとも考えられるわけですが、言下の元に否定しさる、というのはどう良く考えても、知性的ではありません。

続く・・・・

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評価

次に評価について考えてみたいと思います。
施術を行う場合、必ず、そのヒトの身体の評価を行います。
言葉を替えていうなら、何処に問題があるか、という予想なのですが、これが色々あって面白いものです。

前述のように脚長差を評価基準にしたり、環椎、軸椎のみを評価の対象にしたりと、流派の分だけ評価基準がありそうな勢いです。

リフレクソロジーの場合は内臓器の反映として、反射区があるという建前になっておりますから、それぞれの反射区の状態が評価基準となるはず、ですが、その基準はかなり感覚的なもので、評価者(施術者)によって、多様な解釈があるものです。

もともと科学では証明できない分野での基準ですから、曖昧であるということは決して恥ではなく、経験がものをいうという評価基準があってもいいでしょう。
リフレクソロジーは慰安ではありませんから、経験がなくとも豊富であっても一応、評価はすべきではないかと思いますが、あまりやらないリフレクソロジストがいるというのは如何なものかと思います。かと言って、感覚的な評価基準をクライアントに押し付けるのも、これまたいい加減な評価とも言えるわけで、リフレクソロジーにおける評価は実際、難しいところではあります。

基本的に評価を行う施術者は客観的な、かつ誰が行っても、再現性のある評価基準を持ちたがるものですから、あまりに感覚的過ぎると占いとたいして変わらないではないかと、軽蔑する傾向があるようです。前述のように評価者によって評価が変わる評価のあり方というのも実はおかしくはありません。

経絡評価も、感覚的感性がそれを決めていくものですから、評価が変わってきます。勿論、漢方もまた、評価者によって処方が違うわけですから、これも曖昧といえば曖昧です。だから東洋医学はダメなんだと、極論する向きもあるのですが、それをいうなら、西洋医学ですら、医者の力量によって、診断、即ち評価が変わり、処方が異なるわけですから、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの必要性が言われている事実は何を意味するのでしょうか?結局、経験がものを言う世界でもあるわけです。ただし、西洋医学では評価の許容範囲が狭く、評価の違いは誤診につながる確率が高いもので、誤診ならば、命に関わってきます。そこへいくと、自然療法的な方法論は誤診というよりも目的に対する手段の違い、或いは、山の頂上へ登るための道筋の違いみたいなもので、多少の評価の違いがあっても、効率の違いだけであって、タダチに命に関わるというものではありませんから安全ではあります。この安全であるという部分に胡坐をかいて、自身の体系にこだわり、最大効率を得さしめる評価を怠っているという現状もまた問題ではありますが。

実はどのような評価基準を持っているか?というのがその療法の実力でもあるのです。
この評価基準のあり方に腐心してきたというのが、こんにちの自然療法の発展につながっているわけですから、先人達の努力には頭が下がります。それがたとえ、好みに合わなくとも、です。

ある療法の創始者が何々療法を創始した、ということで、流派を立ち上げることがありますが、大概がすでにある方法論に多少の技法の違いを付け加えているに過ぎません。多少の技法の違いなどはその施術者の個性の問題にしか過ぎないわけで、それを秘術とか、秘伝とかいうのは全く羞恥心のない行為としかいいようがないですね。恥知らずが多い業界ではあります。

どちらかというと、西洋的手技法よりも東洋的手技法の分野に多く、勝手に名乗っていることが実に多いものです。これは、西洋的手技はそれなりに体系化されていることが多く、評価基準も定まっているので、そこにはつけこむ余地があまりない、という現状があるのでしょう。対して、東洋系の手技は基本的に曖昧で、また「気」という言葉も便利なものですから、いくらでも独自の名を名乗れるわけです。

それはさておき、独自の流派を名乗るのであれば、独自の身体の評価法を見出せねばなりません。そしてそれは願わくはどのような施術者であっても、その評価基準に沿えば、同じ結論になるのが望ましいわけです。もっと、贅沢を言えば、それが簡便で複雑ではないものがいいのですが、これはと思える独自の評価法に出会うことがあまりありません。
たまにあっても、技法自体に補瀉の概念がないと全く興味が湧くことがないのは前述の通りです。

続く・・・・

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補瀉

そういうことはどうでもいいことなので、話を戻しますね。
整体の基本概念がリリースとインプット、東洋的な表現をすれば、補瀉(ほしゃ)につきるのならば、それをどう具現化していくか、ということが難しいわけです。
それは身体の評価を伴うので、さらに難しさが増すということにもなるのです。

その前に手技が身体に与える効能、というか効果というか、そういうものを定義しなければなりません。
実はこれについては、どんなに技法や体系が異なっていても、ほぼ一致した見解をみることができます。
即ち、その人(クライアント)の持っている自然治癒力を高める、もしくは引き出す、ということを最大の目的にしているのです。ですから、定義としては、ヒトのもつ自然治癒力をマックスまで引っ張り出してあげる、ということに尽きるわけです。自然治癒力という言葉を嫌い、自己治癒力、自己修復力と言い換える流派もありますが、同じことです。
この自然治癒力が発動する機会を妨げているsomethingを除去することをリリースと言い、発動するにエネルギーの不足がある場合はインプットと言うわけです。
東洋的な表現では前者が瀉法、後者が補法となることはいうまでもありません。

そこまでは一致しています。定義は一致しているのですが、それぞれの流派の考え方の違いによって、アプローチの違いが出てくるわけです。

例えば、スペシフィック・カイロやその影響を受けた民間療法家などは脳幹部に全ての自然治癒力発動エネルギーがあると考えます。言わば、自律神経インパルスの阻害によって自然治癒の発動を邪魔していると、考えているわけですね。そして、その阻害要因のほぼ全部が環椎と軸椎の歪みであると断ずるわけです。ここが歪むと、脳幹部から発せられる自律神経インパルスが、もうその部分で阻害されるわけですから、全体にいきわたりません。結果、正常じゃない状態が生まれてくると。

臨床上、確かに環椎、軸椎の歪みを持つ者は多いので、頷ける部分があります。環椎、軸椎の転位、変異を除去するという意味において、優しく、無痛な手技であっても、それはリリースであり、瀉法ということになります。
では、脳幹部のエネルギーそのものがすでに不足している場合はどうするのか?
そういうことはない、と考えます。脳幹部は生まれ出でた時にすでに完成されたハードでもあり、完全なソフトが組み込まれていると。もし、そのエネルギーが不足しているのなら、すでにこの世にはいないか、重篤状態なので、手技法家が相手にするクライアントの対象外であると考えるわけです。

さて、ここで考え方が分かれるのです。そういう状態がホントにないのであれば、脳に対するアプローチは必要がないでしょう。しかし、あると考えるのなら、脳に対するアプローチが必要になります。

医学的な証明の範囲を超えている問題なので、これはまさに考え方次第であり、何度も言っている施術者個人の好みと感性の問題なのです。
ボク個人としては、脳幹部のみならず、脳全体のエネルギーが不足している状態があり得るし、環椎、軸椎だけが、自律神経インパルスの阻害要因ではないと思うわけ。しかし、前述のように首の部分で阻害されている症例も多いので、クラニアル・マニピュレーションを行う場合は必ず、首の施術を行わねばならない、と考えるわけですよ。

これは多分に東洋医学の影響を受けているせいなのでしょう。
前述のように、ボクの中では、整体の基本概念にリリースとインプットが2大柱として存在しなければならない、と堅く信じているからです。即ち、補瀉の概念です。
転位の除去だけなら、瀉法のみになります。折角、脳幹部に目をつけたなら、瀉法のみならず、不足を補う補法がなければ、片手落ち、というものではないか?というある意味、情緒的な判断が働くわけです。やはり、最後、理屈ではなくなるのです。ただ、東洋医学は数千年にわたって続いてきた経験医学ですから、そこから導き出す結論に大きな瑕疵はない、という動機とともに、自身の施術経験からのものですから、その判断には自信を持っております。

ボクがクラニアル・マニピュレーションに興味を持ったのは、頭蓋縫合部分での拘束除去、即ちリリース(瀉法)がある一方で、脳そのものにエネルギーを送るインプット(補法)の両方があるという一点です。その技法の中で、補瀉を同時に行っているところに惹かれました。やはり、どうしても東洋医学的な発想から逃れられないようです。

構造医学に興味を持ったのも同じ理由です。
軸圧という、関節に対する生理的な圧を加えることによって、関節液の分泌を促す、これ即ち滑液の不足を補うという補法となります。と同時に、関節の転位を除去するという瀉法が軸圧をかけたまま行われるので、これぞ、まさしく補瀉一体の技法です。
リリースとインプットが同時に行われるなんて、凄いじゃないか!と思ったものです。
創始者は東洋医学の補瀉の概念を知っていたかどうかは知りませんが、少なくとも、ボクは補瀉の概念から興味を持ったわけ。実践で試したら、ある種の人たちには大変な効果があるということが分かりました。理屈から入って、実践で効果があると分かると、楽しいものです。

その他、優れた療法、効果のある療法もあるでしょうが、補瀉の概念を具現化している体系を持つものがありません。だから、どんなに良いといわれている療法でも、ボクの琴線に触れるものがなく、つまり、興味が湧かないわけです。

まさしく、個人の好みと感性の問題ではあります。

続く・・・

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