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人間は考える腸である

(一)

人間は考える腸である
腸を専門に研究している有名な医学者の言葉です。

最近、色んな意味で腸が注目されていますね。
腸相で分かる寿命とか・・・・一見、正当医学から外れているようないないような・・・・

腸については10年くらい前に「医道の日本」という東洋医学系専門誌に論文を投稿したことがあります。

題名は「腹診、腹証の意義」
日本では「腹証」という独特な診断法が発達してきた歴史があります。

お腹に対する感覚は世界の中でも最も豊かな感性を持っている民族なのかもしれません。

そういうところから話が始まり、発生学的に言っても、腸は最初に出来た臓器であり、腸が発生したことにより、脳が必要になった、という趣旨の論文でした。

そして腸は第2の脳というものではなく、脳の母ではないか・・と。
そこに関連性がないわけがない、とも。

英語でも「腹の底から湧き上がってくる感情」のことをガット・フィーリング(腸からくる感じ)というのだそうです。

東洋医学の経験知は心-小腸を陰陽関係として捉え、表裏一体のものと考えます。
(この場合の心はココロのこと)
ガット・フィーリングは万国共通で感じていたものなのでしょう。

一流の専門学者が言っていることを聞くと、10年前に小生が書いた論文をそっくりなぞっているような錯覚にとらわれます。

(盗作しやがったな)などと考えるのは被害妄想。だって相手は専門の学者ですからね。素人の意見など無視します。だいたい「医道の日本」なんていう雑誌は読まない。

まあ、でも自分が10年前に言ったことが今、大真面目で議論されているのを聞くと、結構自尊心をくすぐります。

日本の腹証とはちょっと違うのですが、オステオパシーでも内臓マニピュレーションという手技があります。この手技はどういうわけか、各内臓に感情が宿るという前提で行われます。こうなると六臓六腑に感情を配当した東洋医学の前提となんら変わりません。

言い方、名称、アプローチの違いを超え、自然療法は洋の東西を問わず、ある一点に収斂していくのではないでしょうか。少なくとも、現代医学との視点とは一線を画し、ヒトの持つ感覚、感性を第一義的に考えるようになるでしょう。

一方で現代医学は分析的、帰納的方法論に益々拍車がかかり、様々な未知を既知化していっています。そして、自然療法はそれらのことを取り入れながらも感性を重んずるという原点回帰への方向に向かっていて、なにやら面白い時代ではあります。

(二)

セロトニンと言えば、ドーパミンと並んで脳内物質の代表格的な存在です。
しかし、身体の分布から言えば、実に90%は消化管に存在しています。

言ってみれば消化管に何らかの機能低下があると、全体のセロトニン量に影響を与えてしまい、不都合が生じる可能性があるわけです。

腹証の意義はそんなところにもあるのかもしれません。

腸の働きを良くするのに、古くは整腸剤サプリや今風な感じで言えば、特定保健飲料など、様々なものがあって、どれが自分にあっているのかさっぱり分かりません。

腸の働きを大切にするのは重要なことですが、情報過多というのもまた選択できなくってしまう要因ではありますね。

これについては専門外ですので、なんともコメントしようがありませんし、お奨めのものは?と問われても答えに窮してしまいます。

整体的に考えると、腸をはじめ内臓の働きを活発にする方法はいくらでもあります。
伝統的なツボ刺激でも内臓はよく動きますし、足の施術でも活性化できるものです。

意外に腕の施術で内臓が動いたりして、(ヒトによってポイントが違うのだなぁ)と実感できる現象ではあります。

個人的に思うに、一番の内臓機能低下の原因は下垂によって起きるような気がします。腹証を限りなく行っていると、第10肋骨の開き角度があまりにも人によって違うことが分かるのです。

一言でいうと胸郭の有り様ということになるのですが、煎じ詰めると、第10肋骨の開きの問題になるでしょう。生まれつきのものですから、大きくこの角度を広くする変えることはできませんが、そこに加齢現象が加わり、または仙腸関節(骨盤)の歪みと相まって、横隔膜の弾性が失われ、さらに胸郭の歪みを助長しているケースが多いものです。

そうすると、胃があるべき位置に収まらず、やや下垂し、それに伴い、全体が下垂していくわけです、当然、腸管もまた圧迫され、または自ら下垂し、機能低下に至るわけです。

そうすると、下腹が膨らみ、特有の「下腹部ポッコリ」状態となってしまいます。
腸は脳の母ですから、母の不都合は子に及び「母病犯子」となって、物忘れも拍車がかかっていくわけです。

内臓が下垂していると頭の働きは確実に低下していくのですが、これを指摘した療法家は寡聞にして知りません。

そこで胸郭をやや広げ気味に、また横隔膜の弾性を回復させ、かつ内臓(胃を中心に)の位置を上方に押し上げると、ウエストが締まり、アンチエイジングともなるのでした。
男性に多いリンゴ型腹部膨満は完全なメタボなので即効的対処ができません。

手技だけでは限度があります。当然、腹筋の強さが必要になりますので、ある程度の腹筋力はつけておくべきでしょう。

エステ等で行う痩身術はこの腹部内臓下垂の問題を解決したときにハッキリしたウエストラインが出て、効果を実感できるものなのではないかと推測できます。

また、そのような状態にしたとき、間違いなく若返るのは腸と脳の相関関係によるものであって、単に気分の問題ではありません。脳が若返ることによって、ホルモン量が変わるのです。

頭蓋が閉じていると影響力は限定的ではありますが・・・・・

こうしたことから、真のアンチエイジングとは腹部の内臓位置異常を正し、頭蓋へのアプローチによって脳脊髄液の循環を促し、直接的、間接的に脳の活性化を図るということになるのではないかと思う次第です。

(三)

「男は頭で考え、女は子宮でものを考える」
昔から言われてきた言葉ですが、ちょっと性差別的な言葉で、今、こんなことをいうとハラスメントで訴えられかねません。

しかし、感性的、情緒的な判断が優先する思考形態を持っていることは確かでしょう。
そもそも、母性という男にはない無償の愛を顕現しやすい感情が備わっています。

ある卒業生がクライアントの症状を貰って、自分の身体に再現されてしまう、と悩んでいました。実はこのような悩みは多いものです。
しかも、圧倒的に女性が多い。

これを共感現象というのですが、この現象の背後にあるのは原始感覚、つまり内臓感覚なのです。まさにガット・フィーリングでもあり、子宮感覚でもあります。

ヒトは本当に疲れきったとき、または限界状況に陥ったとき、父性的な厳しい愛よりも、母性的な無条件な愛に包まれたいと思うものです。そのときはいかなる理屈も受け入れられない状態になっていますから、理屈を超えた癒しを欲するのは当然です。

戦争をしていた時代、徴兵された若者が最後「天皇陛下万歳!」ではなく、「お母さん!」と叫んで壮絶な戦死を遂げた者が多かったというのは有名な逸話です。
(職業軍人は別として)

世に母親との関係がうまくいかないという人も多いのですが、それだけでその人の人生には癒しが不足し、身体に変調を来たすか、精神的にやや偏りが生じてしまいます。
一種の女神信仰はその代償的な産物なのかもしれません。

話を戻しますが、共感現象が極端に現れる体質の持ち主の場合、どのように対処するか?それぞれ工夫をされているようですが、ボクはそのまま受け入れるより他ないと思うのです。

もともと癒しとは同苦するということでもあり、分かち合う、ということでもあります。そこには理屈や技法を超えた精神的な触れ合いがあるはずなので、むしろその感覚を大事にしていくことが肝要でしょう。

経験を積むとうまくコントロールできるようになるものです。


歪み

(一)

ある施術家がHP上で身体の歪みを否定しておりました。

例えば、右足が左足に比べ3センチ短いとする。3センチくらいの差がある人など、ザラにいるわけで、それでも正常な日常生活を送っている人がたくさんいると。

勿論、不調をかこっている人もいるわけですが、その人に対して、3センチくらいの差など一瞬で矯正できるのでやってあげる。
さて、両足の長さを揃えました。どうですか?身体の痛みは取れましたか?全然取れてないでしょう。だから、歪みなどという概念はマヤカシに過ぎないのです・・・とクライアントに説明するのだそうです。

また、背骨の歪みが万病の原因であるならば、セムシの人は即死してなきゃならないのだそうです。

つまり、ほとんどの整体は幻想とマヤカシの世界で自己満足している偽者だという主張です。(自分だけが本物という意味でしょう)

小生は、日々、クライアントに相対し、懸命にその人を良くしてあげようとする施術家には考え方の違いを超え、敬意と共感を覚えるものですが、わずかなエビデンスで他を一切否定しようとする施術家には怒りさえ感じます。

また人間的にも信用できません。いかな実績を挙げていようとも、共感することは全くありません。何故、好みと感性の問題だと素直に言えないのでしょうか。

ある一定のレベルにある施術家なら、歪みには代償的作用によるものがあると認識するのは常識ですし、よって歪みがタダチに不調を現出させるものではないということも常識として知っています。

また、ある原理に基づかないと、足の長さだけを揃えても無意味であることも知っています。他の施術家はバカだとでも思っているのでしょうか。

勿論、人間は正確にシンメトリーであるはずはなく、左右対称であることはありません。
しかし、然るべき理由があって、その歪みが現出されているならば、何故、その歪みが出ているのかを考え、その歪みをとる最善の方法とは何かを考えるでしょう。
決して、直接的方法だけが矯正技法ではないのです。

その人がその人の採用する技法で施術を行った結果、足の長さが揃ったらどう説明するのでしょうか。それでも足の長さは関係ない、と言うのでしょうか。

クライアントの本質的な問題に迫っていって、足の長さが揃うのと、単に足を引っ張って無理やり揃わせるのとでは、現象は同じでも意味が全然違います。ですから、彼の説明はフェアーな言論とは言えません。

今たまたま、足の長さという歪みの一つを例に挙げましたが、歪みには様々な形態があります。その歪みは何を表すものなのか、その人にとって、どういう意味を持っているのか、そういうことを考えるのが施術家の仕事なのです。

確かに、歪みは残ったまま、症状が良くなることもありますし、歪みは消えているのに症状が残っている場合もあります。しかしそれ自体が何を意味するものなのかを考えるのです。

そう言った意味では、歪みを治しさえすればいいとする風潮に警鐘を鳴らしているとも考えられるわけですが、言下の元に否定しさる、というのはどう良く考えても、知性的ではありません。

(二)

虚と実は言葉を変えれば、不足と有余ということになるのですが、前述のように、生体に関してだけ言えば、自然治癒を妨げている要因を概念的に表しているものと言えるでしょう。

不足があって生命力が全身に行渡らない、という現象と、除去しなければならない何かがあって、生命力が行渡らないという場合がある、そのことを言いたいわけです。

それを解決する方法として前者を補法、後者を瀉法というのはご承知のとおり。
極めて概念的なものですので、この解釈は専門家でも分かれるところです。しかも、技法さえまるで反対に解釈する場合さえあります。

それでも、そこそこ害なく行い得るのは、虚の中に実あり、実の中に虚あり、だからとも言え、難しい概念ではありますが、生体の揺らぎを指し示しているのかもしれません。

このことを追求していけばキリがありません。哲学的な論争のような状況を呈してきますから、止めておきましょう。

実践的に考えると、虚と実が同居している箇所があります。
不足と有余が同時にあるなんて、常識では考えられないのですが、まあ、東洋の英知というのは凄いもので、そういう状態を予め想定して、虚の中に実あり、実の中に虚あり、と言っていたのかな、とさえ、思ってしまいます。

具体的な身体の部位で言えば、関節内です。
少なくとも、病的な状態、そこまでいかなくとも正常じゃない状態は、不足と有余が同時に存在しております。これを知るまで、虚の中に実あり、実の中に虚あり、などまるで実感が湧きませんでした。一種の言葉遊びか、ヒトを煙に巻く論法なのか、くらいの考えでした。

関節、若しくは(※)関節に準ずる部位に働きかける考え方の手技法は数多く存在しますが、それぞれ、技法の違いを超えて、ある一定の成果を出しているところをみると、虚中の実、実中の虚という部位であることが分かります。

滑液の不足とズレ、ズレるから不足するのか、不足するからズレるのか、これはケースバイケースで一つを選択できないのですが、現象論でいえば、間違いなく、不足し、転位している状態、つまり虚実同在が関節異常の実体なのです。

そこから様々な問題が派生し、関節とはまるで関係のない症状であっても、関節操作によって良くなる場合が数多くあります。それぞれの理屈はあるのですが、力学的に言っても、エネルギー論から言っても、関節の存在は人のあり方の根本を決める要素ではありますから、そういうことがあっても不思議ではないでしょう。

普通、身体の歪みという場合はこの関節の歪みを指すことになるわけで、ほとんど同義と考えていいと思います。進行すると骨自体が曲がることになりますが、骨が曲がるというのは関節での応力吸収の限度を越えた場合に起きる現象です。(骨自体の病気は除外されことはいうまでもありません)

※関節に準ずる部位=例えば、かつて関節であったものが成長過程で癒合し一つの骨になっている部位、仙尾骨が代表的なものとして挙げられる(仙腸関節とは全く別)。頭蓋縫合部は関節に準ずるものではなく、まぎれもなく関節そのもの。

(三)

小生は足の施術からこの世界に入りました。結局、追い求め、頭のテッペンまで行ってしまったのですが、はやり、臨床数という観点でいえば、断然、足を診ている数が多いものです。

当時はリフレクソロジストなどというシャレた言葉もなく、単なる「足揉み小僧」ではありました。それでも反射区というものを基に施術を行っていたわけですから、言葉如何に関わらず、一応リフレクソロジストだったのでしょう。

さて、最初、反射区というものを教えられ、それに基づいて懸命に施術をしていたわけですが、技法そのものは勿論、反射区の評価をどうするか、ということに心を砕いてきました。つまり、自分なりの評価基準をどう作るか、ということです。

この世界では、有痛診断というものがあります。施術する部位に痛みがあれば、それに対応する反射区の異常がある=その臓器の異常と考えるわけです。

確かに有痛反応という現象はあります。まさにそれを指し示していることがあるのです。しかし、有痛反応というのは一種の感受性テストでもあります。

この感受性というものは中々厄介なもので、ヒトによってあまりにも違いがあり過ぎます。また、施術者の恣意的な意図が介入する場合もあって、客観性という意味では、どうしても馴染めません。

その反省からか、無痛診断という方法も出てきました。これは文字とおり、有痛ではない診断方法です。反射区の状態を見て、触って、異常を検知する方法論なのですが、相当な経験がいることは確かでしょう。

これにボクはなるべく評価の差が施術者によって出ないように、全息胚診断という形で両足の差異に注目する方法に切り替えました。

しかし、これでも、絶対的基準と呼ぶには程遠く、評価者によってかなりのバラツキが見られます。そのこと自体が悪いと言っているのではありません。
述べてきたように、経験がものを言う、という評価法だってあるからです。

そういうことで自身を納得させていたのですが、あるとき、今まで何度も見てきた扁平足のクライアントを診る機会がありました。そこで、フト決定的な何かを見落としているのではないかという感慨にとらわれたのです。

人間、洗脳とまではいきませんが、最初に教えられたことから、中々脱却できず、幅広い考え方ができなくなるのは本質的な性なのかもしれません。
全てを反射区で考え、全て反射区に帰着するように考えていたのですが、少なくとも顕在意識の中ではそのことに何の疑問も湧かなかったのでした。

特にインパイアーしてくれる存在が身近にいませんと、ある考えからの脱却は難しいものです。

反射区とは何か?という簡単なことに気づいていないのでした。
教えられるままに反射区をそこに見出し、そう信じ、施術を行っておりました。しかし、反射区とは実体のない存在です。実在はするかも知れませんが、少なくとも、物理的に存在しているものではありません。概念なのです。

反射区異常というのは還元すると、筋・筋膜の異常でしょう。それが、何かの原因でシコリみたいなものができると、当然ながら反射区異常と解釈します。

実体は筋・筋膜異常とも言えるのですが、何故、そんな簡単なことに思い至らなかったのか?何故なら、そう教えてくれる人がいなかったからでもあり、ボクが鈍いバカでもあったからなんですが、いずれにせよ、概念を優先させ、そこに存在する実体を無視できる程に未熟(素直?)だったことは間違いありません。

扁平足のクライアントを診れば、うわぁ、酷い扁平足だ!外反母趾のクライアントを診れば、これまた酷い外反母趾だぁ!くらいの感想です。

そこには必ず構造的な欠陥があるにも関わらず、それを診ようとせず、反射区だけで解釈していたのです。

扁平足の足をシミジミ診れば、当然ながら、2種類の型に分かれます。
一種類はアーチが下がっておらず、筋肉が異様に発達しているタイプ。もう一種類はアーチそのものが下がって、中にはほとんど消失しているような例もあるタイプ。

前者はスポーツなどの経験者が多く、特に問題はないのですが、アーチが下がっているタイプというのは問題です。クッション、バネの機能がなくなるからです。

どうしてこんなことが起きるのか?
生まれつきの場合もあるでしょうが、生まれつきであっても、構造上の問題を掴まないで、しょうがない、と言えるわけがありません。

卑しくも足を扱う施術者が構造的にそれを説明できず、全て反射区で説明してしまうのはどうなんだろう?という自我の芽生えみたいな、そんな時期にぶつかったわけです。

当然ながら、足の構造を勉強し始めます。しかし、如何に?という理解はできても何故か?に対する答えが出ません。

体系化できないのです。
これは実にもどかしい。

(四)

もどかしいながらも、機会あるごとに勉強だけは続けていました。
そして三関節原理を知ったわけです。

これは脳髄直撃でした。
当たり前のことを言っているのですが、どうしてそんな当たり前のことに気づかないのか。
つくづくと自分の頭の悪さを実感した次第。

足は足というパーツとしての存在だけではありません。身体の一部でもありますが、それはシスティマティックにつながり、身体全体と連携し、活動しているわけです。切り離して考えること自体愚かなことです。

これは概念の問題ではなく、物理的に、力学的にそうなのです。
東洋医学を学びながら、実は何も理解していなかったということが露呈し、しばらくの間、落ち込んだくらいです。

しかし、その考え方を一度知ると、今までの蓄積は生きてきます。フラッシュバックのようにかつての症例が思い浮かび、疑問は氷解されていきました。

ヒトの身体は連続体であって、解剖学的に独立した部位であっても他の部位に影響を与えずにはおきませんし、他の部位の影響を受けないわけにはいかないのです。

三関節(足関節、膝関節、股関節)は特にそうで、ここのどこかが悪いと必ず他の関節も問題を内包しているわけです。これは臨床的に確信できます。

その人固有のライフスタイルなどにより、足の筋・筋膜に問題が発生します。それは意識できない程度かもしれません。しかし、確実に腱、靭帯に影響が及び、それらに支持されている小さな関節群がギャビングを起こしてしまうわけです。

小さな関節群が多数存在するのは足ですから、最初、足の問題から、そして膝へ、股関節へといくケースが多いわけで、それを評価するには足裏を見れば分かります。

結局、反射区異常と言っても、それら、筋・筋膜、腱、靭帯の異常、そして関節群のギャビングを伴っているわけですから、本質的な改善をしようと思うと、刺激だけでは対応できなくなるのです。関節への対応が不可欠になってくることは間違いありません。

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