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歪み

(一)

ある施術家がHP上で身体の歪みを否定しておりました。

例えば、右足が左足に比べ3センチ短いとする。3センチくらいの差がある人など、ザラにいるわけで、それでも正常な日常生活を送っている人がたくさんいると。

勿論、不調をかこっている人もいるわけですが、その人に対して、3センチくらいの差など一瞬で矯正できるのでやってあげる。
さて、両足の長さを揃えました。どうですか?身体の痛みは取れましたか?全然取れてないでしょう。だから、歪みなどという概念はマヤカシに過ぎないのです・・・とクライアントに説明するのだそうです。

また、背骨の歪みが万病の原因であるならば、セムシの人は即死してなきゃならないのだそうです。

つまり、ほとんどの整体は幻想とマヤカシの世界で自己満足している偽者だという主張です。(自分だけが本物という意味でしょう)

小生は、日々、クライアントに相対し、懸命にその人を良くしてあげようとする施術家には考え方の違いを超え、敬意と共感を覚えるものですが、わずかなエビデンスで他を一切否定しようとする施術家には怒りさえ感じます。

また人間的にも信用できません。いかな実績を挙げていようとも、共感することは全くありません。何故、好みと感性の問題だと素直に言えないのでしょうか。

ある一定のレベルにある施術家なら、歪みには代償的作用によるものがあると認識するのは常識ですし、よって歪みがタダチに不調を現出させるものではないということも常識として知っています。

また、ある原理に基づかないと、足の長さだけを揃えても無意味であることも知っています。他の施術家はバカだとでも思っているのでしょうか。

勿論、人間は正確にシンメトリーであるはずはなく、左右対称であることはありません。
しかし、然るべき理由があって、その歪みが現出されているならば、何故、その歪みが出ているのかを考え、その歪みをとる最善の方法とは何かを考えるでしょう。
決して、直接的方法だけが矯正技法ではないのです。

その人がその人の採用する技法で施術を行った結果、足の長さが揃ったらどう説明するのでしょうか。それでも足の長さは関係ない、と言うのでしょうか。

クライアントの本質的な問題に迫っていって、足の長さが揃うのと、単に足を引っ張って無理やり揃わせるのとでは、現象は同じでも意味が全然違います。ですから、彼の説明はフェアーな言論とは言えません。

今たまたま、足の長さという歪みの一つを例に挙げましたが、歪みには様々な形態があります。その歪みは何を表すものなのか、その人にとって、どういう意味を持っているのか、そういうことを考えるのが施術家の仕事なのです。

確かに、歪みは残ったまま、症状が良くなることもありますし、歪みは消えているのに症状が残っている場合もあります。しかしそれ自体が何を意味するものなのかを考えるのです。

そう言った意味では、歪みを治しさえすればいいとする風潮に警鐘を鳴らしているとも考えられるわけですが、言下の元に否定しさる、というのはどう良く考えても、知性的ではありません。

(二)

虚と実は言葉を変えれば、不足と有余ということになるのですが、前述のように、生体に関してだけ言えば、自然治癒を妨げている要因を概念的に表しているものと言えるでしょう。

不足があって生命力が全身に行渡らない、という現象と、除去しなければならない何かがあって、生命力が行渡らないという場合がある、そのことを言いたいわけです。

それを解決する方法として前者を補法、後者を瀉法というのはご承知のとおり。
極めて概念的なものですので、この解釈は専門家でも分かれるところです。しかも、技法さえまるで反対に解釈する場合さえあります。

それでも、そこそこ害なく行い得るのは、虚の中に実あり、実の中に虚あり、だからとも言え、難しい概念ではありますが、生体の揺らぎを指し示しているのかもしれません。

このことを追求していけばキリがありません。哲学的な論争のような状況を呈してきますから、止めておきましょう。

実践的に考えると、虚と実が同居している箇所があります。
不足と有余が同時にあるなんて、常識では考えられないのですが、まあ、東洋の英知というのは凄いもので、そういう状態を予め想定して、虚の中に実あり、実の中に虚あり、と言っていたのかな、とさえ、思ってしまいます。

具体的な身体の部位で言えば、関節内です。
少なくとも、病的な状態、そこまでいかなくとも正常じゃない状態は、不足と有余が同時に存在しております。これを知るまで、虚の中に実あり、実の中に虚あり、などまるで実感が湧きませんでした。一種の言葉遊びか、ヒトを煙に巻く論法なのか、くらいの考えでした。

関節、若しくは(※)関節に準ずる部位に働きかける考え方の手技法は数多く存在しますが、それぞれ、技法の違いを超えて、ある一定の成果を出しているところをみると、虚中の実、実中の虚という部位であることが分かります。

滑液の不足とズレ、ズレるから不足するのか、不足するからズレるのか、これはケースバイケースで一つを選択できないのですが、現象論でいえば、間違いなく、不足し、転位している状態、つまり虚実同在が関節異常の実体なのです。

そこから様々な問題が派生し、関節とはまるで関係のない症状であっても、関節操作によって良くなる場合が数多くあります。それぞれの理屈はあるのですが、力学的に言っても、エネルギー論から言っても、関節の存在は人のあり方の根本を決める要素ではありますから、そういうことがあっても不思議ではないでしょう。

普通、身体の歪みという場合はこの関節の歪みを指すことになるわけで、ほとんど同義と考えていいと思います。進行すると骨自体が曲がることになりますが、骨が曲がるというのは関節での応力吸収の限度を越えた場合に起きる現象です。(骨自体の病気は除外されことはいうまでもありません)

※関節に準ずる部位=例えば、かつて関節であったものが成長過程で癒合し一つの骨になっている部位、仙尾骨が代表的なものとして挙げられる(仙腸関節とは全く別)。頭蓋縫合部は関節に準ずるものではなく、まぎれもなく関節そのもの。

(三)

小生は足の施術からこの世界に入りました。結局、追い求め、頭のテッペンまで行ってしまったのですが、はやり、臨床数という観点でいえば、断然、足を診ている数が多いものです。

当時はリフレクソロジストなどというシャレた言葉もなく、単なる「足揉み小僧」ではありました。それでも反射区というものを基に施術を行っていたわけですから、言葉如何に関わらず、一応リフレクソロジストだったのでしょう。

さて、最初、反射区というものを教えられ、それに基づいて懸命に施術をしていたわけですが、技法そのものは勿論、反射区の評価をどうするか、ということに心を砕いてきました。つまり、自分なりの評価基準をどう作るか、ということです。

この世界では、有痛診断というものがあります。施術する部位に痛みがあれば、それに対応する反射区の異常がある=その臓器の異常と考えるわけです。

確かに有痛反応という現象はあります。まさにそれを指し示していることがあるのです。しかし、有痛反応というのは一種の感受性テストでもあります。

この感受性というものは中々厄介なもので、ヒトによってあまりにも違いがあり過ぎます。また、施術者の恣意的な意図が介入する場合もあって、客観性という意味では、どうしても馴染めません。

その反省からか、無痛診断という方法も出てきました。これは文字とおり、有痛ではない診断方法です。反射区の状態を見て、触って、異常を検知する方法論なのですが、相当な経験がいることは確かでしょう。

これにボクはなるべく評価の差が施術者によって出ないように、全息胚診断という形で両足の差異に注目する方法に切り替えました。

しかし、これでも、絶対的基準と呼ぶには程遠く、評価者によってかなりのバラツキが見られます。そのこと自体が悪いと言っているのではありません。
述べてきたように、経験がものを言う、という評価法だってあるからです。

そういうことで自身を納得させていたのですが、あるとき、今まで何度も見てきた扁平足のクライアントを診る機会がありました。そこで、フト決定的な何かを見落としているのではないかという感慨にとらわれたのです。

人間、洗脳とまではいきませんが、最初に教えられたことから、中々脱却できず、幅広い考え方ができなくなるのは本質的な性なのかもしれません。
全てを反射区で考え、全て反射区に帰着するように考えていたのですが、少なくとも顕在意識の中ではそのことに何の疑問も湧かなかったのでした。

特にインパイアーしてくれる存在が身近にいませんと、ある考えからの脱却は難しいものです。

反射区とは何か?という簡単なことに気づいていないのでした。
教えられるままに反射区をそこに見出し、そう信じ、施術を行っておりました。しかし、反射区とは実体のない存在です。実在はするかも知れませんが、少なくとも、物理的に存在しているものではありません。概念なのです。

反射区異常というのは還元すると、筋・筋膜の異常でしょう。それが、何かの原因でシコリみたいなものができると、当然ながら反射区異常と解釈します。

実体は筋・筋膜異常とも言えるのですが、何故、そんな簡単なことに思い至らなかったのか?何故なら、そう教えてくれる人がいなかったからでもあり、ボクが鈍いバカでもあったからなんですが、いずれにせよ、概念を優先させ、そこに存在する実体を無視できる程に未熟(素直?)だったことは間違いありません。

扁平足のクライアントを診れば、うわぁ、酷い扁平足だ!外反母趾のクライアントを診れば、これまた酷い外反母趾だぁ!くらいの感想です。

そこには必ず構造的な欠陥があるにも関わらず、それを診ようとせず、反射区だけで解釈していたのです。

扁平足の足をシミジミ診れば、当然ながら、2種類の型に分かれます。
一種類はアーチが下がっておらず、筋肉が異様に発達しているタイプ。もう一種類はアーチそのものが下がって、中にはほとんど消失しているような例もあるタイプ。

前者はスポーツなどの経験者が多く、特に問題はないのですが、アーチが下がっているタイプというのは問題です。クッション、バネの機能がなくなるからです。

どうしてこんなことが起きるのか?
生まれつきの場合もあるでしょうが、生まれつきであっても、構造上の問題を掴まないで、しょうがない、と言えるわけがありません。

卑しくも足を扱う施術者が構造的にそれを説明できず、全て反射区で説明してしまうのはどうなんだろう?という自我の芽生えみたいな、そんな時期にぶつかったわけです。

当然ながら、足の構造を勉強し始めます。しかし、如何に?という理解はできても何故か?に対する答えが出ません。

体系化できないのです。
これは実にもどかしい。

(四)

もどかしいながらも、機会あるごとに勉強だけは続けていました。
そして三関節原理を知ったわけです。

これは脳髄直撃でした。
当たり前のことを言っているのですが、どうしてそんな当たり前のことに気づかないのか。
つくづくと自分の頭の悪さを実感した次第。

足は足というパーツとしての存在だけではありません。身体の一部でもありますが、それはシスティマティックにつながり、身体全体と連携し、活動しているわけです。切り離して考えること自体愚かなことです。

これは概念の問題ではなく、物理的に、力学的にそうなのです。
東洋医学を学びながら、実は何も理解していなかったということが露呈し、しばらくの間、落ち込んだくらいです。

しかし、その考え方を一度知ると、今までの蓄積は生きてきます。フラッシュバックのようにかつての症例が思い浮かび、疑問は氷解されていきました。

ヒトの身体は連続体であって、解剖学的に独立した部位であっても他の部位に影響を与えずにはおきませんし、他の部位の影響を受けないわけにはいかないのです。

三関節(足関節、膝関節、股関節)は特にそうで、ここのどこかが悪いと必ず他の関節も問題を内包しているわけです。これは臨床的に確信できます。

その人固有のライフスタイルなどにより、足の筋・筋膜に問題が発生します。それは意識できない程度かもしれません。しかし、確実に腱、靭帯に影響が及び、それらに支持されている小さな関節群がギャビングを起こしてしまうわけです。

小さな関節群が多数存在するのは足ですから、最初、足の問題から、そして膝へ、股関節へといくケースが多いわけで、それを評価するには足裏を見れば分かります。

結局、反射区異常と言っても、それら、筋・筋膜、腱、靭帯の異常、そして関節群のギャビングを伴っているわけですから、本質的な改善をしようと思うと、刺激だけでは対応できなくなるのです。関節への対応が不可欠になってくることは間違いありません。

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