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冷え

冷えと一口に言っても様々なタイプがあります。

単純に体の熱量が足りない場合、自律神経のコントロールが上手くいっていない場合、一部の臓器の炎症があって、あえて手足を冷やさなければならない場合。

その他、重大な病のシグナルの場合など。

我々が相手にするケースはほとんどが前二者ですから、単純に温めてあげればいいのですが、中には全く温まってこない方々もいるので難儀します。

手足は末梢神経反射が起きるところなので、昔の津軽三味線弾きがやったように、温水ではなく、氷水に一瞬つけて、毛細血管の拡張と促すという手もあるのですが、根本的な解決にはなりません。(一時的には温まりますよ、サウナのあと冷水に浸かるとポッポと体が熱くなるのに似た感じですね)

低体温からくる冷えの場合は、その人のライフスタイルなどが大きく影響しますから、普段の生活を見直す必要があります。

朝食を摂らないと低体温になりやすいというのは本当のことのようですし。

自律神経系の問題は=ホルモンバランスの問題でもありますから、これも体質改善であって、即効的な効果を得さしめることはできません。

しかし、気長に施術を続けていると、「冷えで悩むことがなくなったわ」などという話もよく聞き、対処しやすいものではあります。足の施術は内分泌系によく効くものです。

機械的なメカニズムも関係していて、人工股関節や人工膝関節挿入者が冷えで悩むことも多いことから、ソケイ部=股関節に何らかのブロックがあって血流、リンパ流を阻害している場合もあります。

大概は複合的な要因ですね。生殖腺の問題を抱えていて、股関節に問題がない、という人は稀ですから。

ヒトの身体というのはよく出来ていて、外気温に関わらず、一定の体温を維持できるようになっています。そうでなきゃ、蛇みたいに冬は冬眠しなきゃいけない。ある一定の体温がなきゃ活動できないわけですよ。各器官が活動しやすい体温というものがある。

ところが、ヒトの身体はたんぱく質で出来ているわけで、このたんぱく質は42度で変性が始まってしまいます。たんぱく質が変性すれば生きていかれません。即ち死あるのみです。

実に狭い範囲でしか体調を維持できないんですね。

内臓の中では肝臓が一番温度の高いところです。普通の人でも40度はあるんじゃないですかね。いつも熱くなって働いている臓器なのです。

普段でもカッカしている臓器ですから、イライラ、怒りなどでカッカすれば、肝臓はさらにカッカしてその熱を逃がさねばなりません。

「怒りは肝を傷る」とは東洋医学の格言ですが、肝火上衝という病態は古人の洞察力を示してあまりあるものでしょう。

肝の熱は上へいきますので、当然、手足が冷たくなります。
肝硬変などの病気で手足が異常に冷えるということはよくあることだそうな。

そこで、肝臓辺りを冷やしてあげると、ピタリと手足の冷えが治まったという記述を読んだとき、「う~ん、さもありなん!」と大いに感心したのでした。

このケースは医者にかからねばならない程の「病気」なのですが、病気までいかなくとも、未病レベルで肝が傷められ、そこにイライラが募って、手足が冷えているという場合もあるのではないか、と秘かに思っております。

さすがに、その見分けは未だつかないので肝臓周辺を冷やしながら施術をしたことはありませんが・・・・

いずれにせよ、様々な原因があります。
「冷え」という単純そうな症状でも一筋縄ではいかないことが多いわけです。

施術者の探究心

血液やリンパ液の流れを良くするというのは、当然のことであって、あらためて強調するようなことではないと思います。

大事なことは“何が”血流やリンパ流をブロックしているのか?という探求でしょう。
そこに至るプロセスというものが必ずあるはずです。

例えば耳のリンパ流の阻害は直腸反射によって解決される事実を知ることとか。
逆に言えば、直腸反射の阻害が原因の一つとも言えるわけ。

そうすると、直腸反射を正常するには、どうすれば良いのか?という方法論にいきついていきます。

先人達の探求によって、仙尾骨の制限的拘束が原因だと分かるとします。それを操作することによって、解決したとするならば、それを結果論として考えると「リンパ療法」と言うことができますし、方法論から言うならば「仙骨療法」と呼ぶこともできます。
反射という側面にスポットを当てると「反射療法」とも呼べるわけです。

このようにどの側面を強調するかによって呼称が違ってきます。
極端な話、全く同じ操作を加えても、療法の呼称が全く違うこともあるわけで、単に受け取る側のイメージにしか過ぎないことも起こりうるわけですね。

自分が何をやっているのか?という施術者の認識は重要です。その操作の結果として何が起こりえるのか?という予測のもとに施術しませんと、施術自体が単なる作業となってしまい、いずれ飽きてきます。

ところが、治癒機序は一つではありません。未だ未解明な部分も含めて、様々な機序が働いて自己治癒力を促していくわけですから、施術者が全く予測していないメカニズムが働くことだって考えるられるのです。

施術の面白さというのは、実はそこにあるような気がします。良き施術者はすべからく、このような探究心があるのではないでしょうか。

ある程度のレベルまでいくと教えられるものではなくて、様々な機会を利用して啓発されるものなのです。それは文献であっても、クライアントからであっても、勉強会であってもどんな形でも良いのです。

自分のやっていることを違う側面から理解できたり、或いは、そういう考え方もあるのか!とインスピレーションを受け、技法を変化させたり、と様々な機会を捉え、糧としなければなりません。

怖いのは原理主義に陥ることです。ある考え以外受け付けないというのが原理主義なのですが、こうなると全く進歩がなくなります。

フルフォード博士が90歳を超えて尚、亡くなる3日前まで、より本質的な手技について考え続けたというエピソードは我々を鼓舞してくれる好例でしょう。

そういう意味では全ての施術者は未熟とも言えるわけで、到達した者などいません。
ただ単に限界を甘んじて受け入れているか、甚だしい勘違いをしているか、どっちかということになるのですが、いずれにしても探究心なき者はせっかく施術という汲めども尽きぬ奥深い世界に足を踏み入れながら、その本当の醍醐味を知らずに過ごしていることになります。

考え続け実践し、実践し続け考える。
上級者であっても初級者であっても、このような態度で臨まねば、単に施術が上手いかどうかでしかなく、それは街の揉み屋で人気は出ても本当の意味での施術者になることはないでしょう。

リラックス

随分前のことですが、ある30代の女性の方の施術をしたことがあります。
第一回目の施術を終え、まあ、それなりに良い施術が出来たと満足しておりました。

二回目の施術。この女性の方、絶賛の嵐。
「今まで色んな施術を受けてきましたが、これほど身体が楽になった記憶がありません。翌日は絶好調でしたし、それがかなり長い間続いていました。先生!凄いです!ゴットハンド!ゴールドフィンガー!魔法の手!!」

施術家として悪い気はしませんね。話半分に聞いても相当な満足感があったわけです。

さて三回目。この方、かなりハッキリものを言うタイプなので、どうでしたか?と問いました。

すると「一回目の施術で感じた解放感がありませんでした。なんか普通の感じです。身体が楽になった感じもしませんでした」

さて、何故でしょう?
二回目の施術と一回目の施術が違った?
つまり手を抜いた?
ノー、ノー!です。施術自体は全く違いがありません。
じゃ何?

実は一つ違いがあったんです。

一回目の施術はこの方、とてもリラックスしていてほとんど何も喋らず、されるがままに受療されていたのが、二回目の施術は慣れがあったのとボクに伝えたかったのでしょう、一回目の施術が如何に良かったかを。そこから、ドンドン発展してほとんど世間話みたいになってしまいました。終わってみれば、施術の間中、喋っておりました。

(まずいなぁ)とは思いながらも、「ちょっと黙ってて!」と言うわけにもいかず、内心、困っていたのですよ。

全く同じようなケースが過去三度ほどありましてね、心配はしていたのです。
まあ、施術中に色んなことを喋って、それでストレスを解消するタイプの人もいますので一概にそれがダメだとも言えないのですが、施術自体の効果はかなり減衰してしまいます。

よく「寝てしまうと効果が半減する」と言われておりますが、クライアントが喋りながらの施術は半減どころではありません。おそらく五分の一くらいになってしまうでしょう。
(寝てしまうと効果が半減するという説には同意できません。施術のあり方の問題です)

健康時には分かりませんが、喋るというのは結構エネルギーを消費します。そもそも言語中枢が働かねばならないので脳が休まりません。脳はエネルギー消費ナンバーワンの器官です。声帯も使いますし、呼吸筋も使います。

だから、ホントの病人は弱弱しい声でしか話せないのです。
声を聞けばその人の元気度が分かるというくらいですからね。

エネルギーをインプットする毎に消費してしまえば、ザルに水を溜めようとするみたいなもんですよ。(参ったなぁ)です。

気の弱い小生としては中々途中で遮ることができないので、プレカウンセリングのときに言うようにしています。

それで大概は黙って施術を受けてくれるのですが、中にはこういう方もいて、困るわけです。

この問題は実に難しい問題を孕んでおります。
施術家としてはその人のことを知りたい、という欲求があるわけでしょ。

知れば知るほど、適切な処置が出来るという側面もあるのでね。
しかし、施術自体の効果を犠牲にしなければなりません。

別枠でカウンセリングの時間を長く取るというのは、時間が押してしまい、事実上不可能かと思われます。

さて、どっちを取るか?
ボクは施術効果のほうを取るタイプです。

っていうか、施術自体に集中力が要求されますので、相槌を打つだけで集中力が乱されてしまい疲れてしまうわけ。

そんなに集中して疲れない?とよく言われますが、全く逆。
集中力の極限に達したとき、多分、脳波計があればミッドα波が出ているのが検出されるはずです。

ある種の瞑想状態に近い感じなります。すると自身の身体が軽くなり、至福感にさえ包まれます。自分がリラックスせずしてクライアントがリラックスできるはずもないので、こういう感じの施術を全編通じてやりたいのですが、未だ修行が足りません。

途中で集中力が途切れてしまい、罪悪感を感じること度々ですから、ましてや、相槌を打ったり、相手の話に乗ったりすると、全くリラックスできないわけですよ。

施術効果の減衰だけではなく、自身の健康にも悪い。

結局、施術というのは相手と一体となるほど集中して、その結果、完全なリラックス感が自身に再現されることを言うのだと思います。

これ以上のことは自分には出来ない、と自信を持って言えるレベルまでいくことが目標にはなるのですが、いかなる場合もその状態にスンナリと入っていける、となると、まあ、いつのことになるやら。

寿命が300歳くらいまであるなら、250歳くらいで到達するのかもしれません。

ですので、なるべく集中しやすい環境を作るというのも一つの方法なのですが、あまり恵まれた環境にありますと、ちょっとした物音でも集中できない体質になってしまうので、難しいところではあります。

緑内障とイップス病

昔、タレントの大橋巨泉氏がゴルフに関するコラムを週刊誌に書いておりました。何気なく読んでいたら、イップス病という言葉が出てきたのです。

小生、ゴルフはしないので、なんのことやらと読み続けると、どうもパターが突然入らなくなる病みたいです。

そんな病気があるのか?訝しがっていると、神経系の混乱がおきて多分に心理的な要因があるとのこと。治療法はないのだそうです。

一流のプロゴルファーでも突然かかることがあって、引退に追い込まれた例も多々あるらしい。

中島常幸氏も一時、この病にかかり半引退状態に陥ったらしいのですが、今は長尺パターに代え、活躍していることはご承知の通りかと思います。

そういうコラムを読んだお陰でイップス病という言葉、もしくは概念を知ったわけですが、自身、ゴルフはしませんので記憶の彼方に仕舞われ、思い出すこともありませんでした。

まあ、命に関わるような病気でもありませんし、プロゴルファーでもないかぎり、生活に支障が出るわけでもありません。一種の贅沢病であって、庶民には関係ない話だな、と。

ところが最近、大橋巨泉氏のその後の経過を知る機会がありました。産経新聞で彼自身が「緑内障」という題名で述べおりました。

仕事まで減らしてゴルフに専念できる環境を作ったのになんだってこんなパターが入らなくなる病気に罹ったんだ?と憤っていたのらしいのですが、一向に改善される様子はなく、落ち込んでいたらしい。

ある日、ある人から、片目で見てご覧と言われ、左右の目で確かめてみると、右目は正常なのだそうですが、左目で見るとカップへいくラインが歪んで見えることを発見したというものです。

何度見ても歪んで見えるので、これはおかしい、ということになって、精密検査をしたら、左目の網膜が剥離しかかって「緑内障」という診断が下ってしまったというのです。

そう、彼の場合はイップス病ではなく緑内障からパターが入らなくなっていたのでした。
彼の言によると、ゴルフをやっていたお陰で緑内障が発見され、失明に至らなく済んだ、と。(実兄は緑内障で失明したそうです)

ゴルフをやっていたお陰でイップス病と勘違いし発見が遅れたという論も成り立ちそうですが、まあ、かたいこと言わないでその通りだとしておきましょう。

ともあれ、ゴルフという競技を見る限り、ドライバーショットに代表されるように一定方向に身体が捻られますし、パターに代表されるように動きを止め、多大な集中力も要求されます。

従いまして、運動量の少なさのわりには、身体の不調がプレイに影響が出やすいのではないかと思います。つまり、異変のシグナルを感知しやすいスポーツだなと。
アドレナリン全開のスポーツですと、多少の異変など感じなくさせてしまいますもの。

ゴルフをしない我々は日常的なイップスに気をつける必要があるのかもしれません。
今まで出来たことができなくなったり、言葉で言い表せないような違和感を感じたりしたとき、検査も含め何らかの処置をすることは重要なことなのかもしれません。

大半は単なる加齢によるものであったとしても、何百分の一の確率でホントの病変があるのかも、です。神経質になりすぎて毎日不安に怯えているようでは本末転倒になってしまいますが・・・・バランスの難しいところではあります。

※ちなみに40歳以上の方、20人に一人は緑内障に罹っているのだそうです。そして、8割~9割は治療をしていないと。ボクサーのような打撲が原因ではなく、目の酷使が主因であるそうな。だとすると、この先、増えることはあっても減ることはないでしょう。携帯でのメール、パソコン操作、コンタクトレンズの普及、目に対する環境は悪くなる一方です。かくいう小生もパソコン画面の見過ぎ。マズイ・・・還暦の頃にはリッパな緑内障になっていそうな勢いです。目の支配経絡は胆経か。古典経絡では大腸経「曲池」。自分で押せるので予防に押しておくか。

訂正-再生されない細胞

リフレクソロジーのプロコースの授業の中で、ヒトには再生されない細胞があって、その代表格は脳細胞(神経)と心筋細胞だとお話しました。

昨日、NHKの番組を見ていたら、この常識を覆す内容が放映されておりましたので、謹んでここに訂正をしたいと思います。

この番組の中で医者自身が「今までの常識が覆されていく」と発言しております。現場の医師でさえそうなのですから、ボクの知識が若干古いものであったというのは仕方がないことなのかもしれません(言い訳)

しかし、驚きました。幹細胞が、様々な細胞に変化し、再生医療の切り札になるかも知れないと報道されたのは随分前のことでした。しかし、色んな問題があって実用化にはまだまだ時間がかかると思っていたわけです。

この度の内容は患者自身の骨髄細胞が使われており、倫理的には問題ないものです。また、骨髄移植が一般化しておりますので副作用の問題もほぼクリアーされているものでした。

したがって、臨床試験は驚くほど早く許可がおり、日本でもすでに実施されていたというのはボクの勉強不足以外の何物でもありません。いや失礼しました。

脳梗塞によって、脳細胞の一部が死滅し、脳自体の再生はできないという従来の見解から、リハビリ等で新しい回路を作っていくほかないという、そういう見解を持っていたのでした。
しかし、番組によると、骨髄細胞を培養し患者の身体に戻したところ、なんと!!死滅したはずの脳細胞の周りに新しい血管が作られ、かつ、脳細胞が正常化していくということが立証され、臨床的にも改善されていくという現実を知ったわけです。

現在、まだ臨床試験中で、一般的な治療にはなっておりませんが、ボクの予感では普通の脳梗塞治療としてスタンダードなものになっていくのではないかと思います。
大変かつ驚くべき進歩です。腰が抜けるほど驚いてしまいました。

心臓もまたドイツの例ではありましたが、放映されておりました。
これも脳梗塞の例と同じくらい驚きです。

ある条件がつきますが、心筋梗塞や脳梗塞の患者さんには本当に朗報となるでしょう。
いままで社会復帰が困難な例でも復帰する可能性が出てきました。

一刻も早く臨床試験をクリアーし、一般的な治療になることを願って止みません。
民放報道はヤラセの問題でその信用は地に落ちた感がありますが、クサってもNHKです。少なくとも、報道自体にヤラセはないでしょう。

ヒトの持つ再生力には驚きです。
まだまだ眠っている再生力を顕現させる方法があるに違いありません。
そして、それは手技という方法論についても言えるのではないでしょうか。

太古のエジプトでは手足ががなくなった兵士のそれをクリスタルの力で再生したという伝説があります。また使いものにならなくなった内臓さえも再生したとも。

多分に誇張された伝説だと思っておりましたが、なにやら現実味を帯びてきました。
常識が覆される方法論がこれからも発見されていくことを心から願うものです。

愛と寛容

愛と寛容を説く宗教は多いのですが、特に教団的な色もなく、愛と寛容を生活の旨とする考え方があります。

この考え方は両刃の剣でとても危険です。
心の底から愛が満ち溢れ、ヒトを許す気持ちになれればなんと豊かな人生を送ることができることか。それについてはなんの異存もありません。

しかし、人間にはどうしようもなくついて回る負の感情もあって、そこから逃れることはできません。もしそういう感情に捉われ、それを発散できなければ、どうなるでしょう。自分の信条とは別の感情ですから、それを抑圧し、(ダメだ!こんな感情を持っては!愛を持たねば愛を持たねば)と言い聞かせるに違いありません。

しかし、それはそのまま感情の抑圧になるのです。
古来より聖人が少ない確率でしか生まれないのは、本当の気持ちでそう思うことができないという人間の本来的性によるものなのです。

理想に一歩でも近づこうとする努力は認めますが、身体的にはマイナスに働きます。或いは極端な二重人格を形成してしまうかもしれません。

かのアンドルー・ワイルも同じことを言っていて、愛と寛容の心持が病気を治すという意見に異を唱えています。

ある男が不治の病に罹り、絶望に打ちひしがれました。
その絶望のあと、その男はどうしようもなく強い怒りを感じたのです。

それは自分に対する怒りでもあったのかもしれませんし、そうさせた何かに怒りを覚えたのかもしれません。いずれにせよ、その男は怒りを爆発させました。凄い勢いで怒ったのです。そして、その怒りを解放させ、落ち着いたときから快方に向かい、病気は完治してしまいました。著作に載っている例です。

負の感情も抑圧してはいけないのです。
しかし、怒りは回りに迷惑をかけてしまいます。悲哀を感じて泣くというのも人前ではできません。当然ヒトに迷惑がかからないような環境での感情開放が前提になるのですが、とにかく抑圧してはいけません。

社会正義を追求するとき、不正に対する強い怒りが原動力になります。
悲しみは他人に対する深い共感を覚える手段にもなります。

このように負の感情でさえ、ヒトを成長させる原動力足りえるわけですから、その感情を恥じる必要もないわけで、むしろ抑圧こそがヒトの成長不全を促し、かつ病気にさせてしまう原因なのです。

ただし、繰り返しますが、ヒトを不快にさせる環境での爆発は帰ってマイナスにはなるでしょう。

故橋本龍太郎元首相は「瞬間湯沸かし器」との異名を奉られたくらい怒りっぽい人であったそうな。官僚ともタイマンで議論できるほど有能な政治家だったそうですが、仲間内からは極端に嫌われていました。不遇の晩年を送ったのはご承知のとおりです。

管直人氏は政界随一の論客と言われていますが、通称「イラ管」(いつもイライラして怒っている)と呼ばれ、実力の割には人気が出ません。

このように感情のコントロールは人間関係がある以上、不可欠なものですが、コントロールと抑圧は別物なのです。

無理やり抑圧している人には2つのタイプがあります。
一つは人間的な輝きを失い能面のような顔つきになるタイプ。
一つは愛と寛容を口にしながら、とめどもなく愚痴をいうタイプ。
どちらにせよ、感受性が鈍いものです。

ある介護士はストレスがキツクなってコントロールが出来なくなりそうになると、リネン室に用意してあるパンチングボールを思い切りひっぱ叩いて、何事もなかったように笑顔で仕事をするのだそうです。

こちらのほうが余程健全でしょう。要介護者を引っ叩いてしまったら、大変な問題です。

優しくしなければならない、愛を持たねばならない・・・
~ねばならない、かくあるべき、という理想論は一種の呪縛ともなりうるのです。

だから両刃の剣となって、あるときは自分を傷つけてしまう。
真面目な人に多いのですが、真面目がいいとは限らないわけです。

いい加減は良い加減でもあるわけで、本来、中庸の精神のことを言ったものでしょう。
いい加減ではなく良い加減を会得するにはこれもまた修行が要りそうです。
しかし、~ねばならない、という呪縛に陥るよりは建設的ではあります。

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