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ぴくぴく

左の瞼がピクピクします。
考えられるのは、
1、 頭部筋群及び顔面筋群にコリが発生し血流の確保がままならない。
2、 偏食によってミネラル系(特にマグネシウム)が不足している。
3、 ストレスによって急激にマグネシウムが消費され、供給が追いつかない。
4、 1,2、3の要因が全部ある(関連していますものね)
5、 重大な神経系、特に脳疾患。

最初にこの症状が出たのは20代半ばでした。
やはり、最初というのはビックリするものです。
あんまりビックリしたので脳神経外科へ行きMRIを撮った記憶があります。
当時、MRIというのは最新鋭機器でございましてね。
保険が利いて1割負担でさえ、5千円以上取られたので、ピクピクが治まるくらいビックリしてしまいました。保険がなきゃ、5万円もかかるのか!
結局、脳には異常がなく、「単なるストレスでしょう」ということでした。

それ以来、度々この症状が出てしまいます。
経験から重大な問題が内包されてはいないということが分かるのですが、この症状のあと、結構、何かで寝込むことが多いのです。
体力低下のシグナルなのでしょう。
そのあと罹るのはインフルエンザか、昨年はノロでしたし。
嫌な予感がします。
バランスの良い食事と休養が必要なのですが、例年、何故か、年末は忙しい。
気をつけなければ・・・・

後日・・・・
実はこの原稿を書いたときは12月23日でございました。
現在は12月30日。
23日以降、正確には25日あたりから風邪を引いたようです。
やはり、予感は的中・・・トホホ。
しかし!インフルエンザでもなく、ノロでもないようで、単なる鼻風邪でしたね。
もう随分良くなりましたよ。
一時はハナタレ小僧状態でカッコワリィ。
今年もあと少し、もうひとふんばり!
頑張りましょうね。

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コリは鬼というけれど・・・・

コリを放っておくと様々な問題が起きてきます。
当然といえば当然ことなのですが、視点を変えて見ると、違った風景が見えてくるものです。

コリを感じやすい人、感じづらい人というのは確かにいます。
中にはコリの極限に達していて首が回らなくなっているのに、尚、コリを感じないなどという人もいました。
割と昔の話なので、今なら、なんとかできるのになぁ、という思いもあるのですが、当時は全く歯が立たなかったことを覚えております。
(こう考えると対応技法は飛躍的に増えているようです)

実に問題だな、と思うのはむしろコリを感じない体質のほうです。
コリを感じやすい人というのは、当然、それが苦痛ですから、何とかしようと考えるわけです。街の揉み屋さんでも一時的には血流を確保してくれますし、自分にあった整体などを探す努力はするでしょう。そのうち、ドンピシャとあったサロンを探しあて、苦しくなったら、SOS(今はメーデーメーデーというのかな)を発しながら、行くこともあるでしょう。
そういうのでも随分と違うものです。限界を超えないわけですから、ギリギリセーフで病気の種を摘み取ることができるわけです。

ところがコリを感じないとノンビリしているわけです。
自分で限界が分からないので、いずれ、許容範囲を超えて爆発します。
どこに出るかは分かりませんが(その人の個性)、爆発してしまったあとの始末はとても大変です。もはや整体適応ではなく、病院に行ってもらわねばならない場合もあって、(なんだってこんなんなるまで・・!!??)と思うこと度々なのです。

確かにコリはつらいし、放っておくと病気の原因にもなります。
まさに「コリは鬼なり」なのですが、シグナルと考えれば、鬼は鬼でも悪鬼ではなく善鬼でさえあるのかもしれません。

どんな病気でも怖いのは自覚症状がなく進んでいくものですから(癌など)、シグナルがあり、それを感じ取って早期に対処できれば、それほど大病には至らないものです。
そういう意味でもコリは日本人が獲得した良き体質的伝統なのかもしれません。

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首-3

首は単独であるのではなく、首から肩、肩甲骨、背中へと筋肉が続いております。
ですから、首、肩、肩甲骨、背筋はセットで考えるべきものでしょう。
首だけをほぐすと、かえって、肩甲骨や背中に強いコリ感を感じる人も出てきます。
経絡的にも説明できますが、まあ難しく考える必要はありません。
さらに頭へのアプローチがないと、スッキリしない一群の人々もいます。
こう考えると、首だけのアプローチはあまり意味がありません。
それらは悪化ではなく瞑眩反応ではあるのですが、なるべく最小限に抑えたいものです。
筋筋膜の硬化をほぐすのは必要不可欠ではありますが、やはり椎間関節の潤滑を促進し、関連部位へのアプローチを行わねば、コリがスッキリ取れたという感覚を与えるづらくなるわけです。(若しくは長持ちしない)
ここら辺が街の揉み屋さんに欠けているところです。
逆にいうと、個人開業者はそういう大手にはできないことをやってあげて差別化する必要があるわけです。

いずれにせよ、首の血流、リンパ流が回復しますと、「母なる自然の仕事」が行われやすくなり、病気予防になるわけです。それも完全かつ全く正常に少なくともその場ではニュートラルに戻してあげねばならないのです。
そうすれば、信じられないほど楽になった!という声もチラホラ聞こえてくるに違いありません。施術家にとってそれは明日への糧になるものです。
精神のご馳走と言えなくもありません。
普通にやって普通の反応では段々疲れてきます。
一回で治りづらい症状も数多くあるわけですから、単純な首、肩コリなら「信じられない」という形容詞がつくくらいの賛辞を浴びねばやっている意味がないでしょう。
難しいところではありますでしょうが、首はそういう部位でもあるわけですから、研究する価値あり、だと思います。

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首-2

数多くの首を診ているとあることに気がつきます。
後頚部が張って、如何にもコッているという感じの人と、むしろ後頚部が緩み気味で前、横頚部が張っている感じの人に分かれるのですが、後者はムチ打ち経験のある人に多いものです。
勿論、ムチ打ちと言っても損傷進入角度によって、状態が違ってきますから、絶対的基準にはなりえません。
百話でも書きましたが、ムチ打ちの場合の処置は時間が経てば経つほど、難しくなります。
(時間がかかるという意味)
また、現代ではとても多いストレートネックも問題です。
首一つ取り上げても、一人一人状態が違っているのは当たり前の話ですが、個人的には腰よりも首で苦労した経験がありますので、余計にその状態を感じ取りやすいのかもしれません。
寝違いを繰り返すというのは隠れた病気、障害を持っていることが多く、そのことにもよく注意を払わねばならなくなります。
ボク自身は血圧の問題が首に出ていました。
血圧の問題が解決しない限り、同じことの繰り返しになってしまいます。
あまりにも首が痛く苦しいということで、瀉血までやった記憶がありますが、かえって悪くしたものです。
血圧を上手くコントロールできるようになったら、ウソのように首の問題はなくなりました。
そういうこともある、ということはよく認識して置かねばならないでしょう。
(単純なコリの場合の方が多いのすけどね)

つづく

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首の重要性については今更言うまでもないことです。
しかし、首はデリケートなところですので、これをほぐすのでさえ、熟練を要します。
今はあまり聞きませんが、昔、首の骨をポキっと鳴らすのが上手い施術者の代名詞になっていた時期がありました。

しかし、あまりにも事故が多く、中には全身不随状態にまでさせて、クライアントも施術者も人生を棒に振ってしまう事態が多くあったわけです。
医師会、国民からのクレームに耐えかねたのか、当局(厚労省)は通達によってこれを禁じました。通達には法的な拘束力はありませんが、少なくとも行政側は「危険行為であって、好ましくない」という意思表示をしたのです。
不服なら裁判で争うしかないでしょう。
裁判で争う覚悟もないのに、未だに少数ですが、首のポキポキ施術を行っている業者がいるというのは解せない話です。
明確な通達違反である、ということはこの際、ハッキリ認識して置くべきでしょう。

このポキっとなる音は椎間関節の関節嚢の中にある滑液に含まれる窒素ガスが破裂する際に起きるものです。
専門的にはキャビテーションと言います。
破裂する際に起きる衝撃波はかなりのもので、それが自律神経を刺激し、一瞬、スッキリする感じがすものですが、矯正しているわけでもなく、骨のズレを移動させているのでもありません。もしあるとすれば、椎間関節の脱臼でしょう。
椎間関節は鳴らすものではなく潤滑させるものなのです。

つづく

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くびれ2

明らかにそこに原因があると分かっていても、中々除去しきれない場合もあって、こういうときはイラつきます(施術者がイラついてどうすんだ?)。
古傷の場合、手技だけで行うのは難儀中の難儀だと申せましょう。
足首をしっかり補で固定し、関連する経絡の処置をするのがセオリーなのですが、それでも一回での施術では無理がある場合が多いものです。
(足首を回す程度では全然とれませんから、大概のリフレクソロジストは新しい拘束以外、除去しているとは思えないのです)

右足首の骨折痕が数十年の歳月をかけて胸骨の微細運動を阻害し(リンパ流停滞)、左乳房の癌にまでいってしまった例もありますから、手は抜きたくありません。抜きたくはありませんが、途中で来なくなることもありますので、力不足を痛感する場面ではあります。

手首については体重という負荷もかかりませんし、よく動かすところでもありますから、足首ほど拘束されるものではありません。
それでも、突き指のショックが手首にまで及んで、稀に拘束されている場合もあります。
しかし、足ほど大きくありませんので比較的楽な作業となります。

さてさて、続いて腰です。
腰首という言葉がないだけで、腰は紛れもなく“くびれ”があるところです。
かつここの運動制限は他の部位と比較にならないくらい早期に歪みを現出させてしまいます。腰の拘束というとあまりにも範囲が広く、その概念さえありませんが、ある年齢を超えると非常に多い「証」と申せましょう。
ボクはこれを「椎間関節潤滑不全の証」と名付けました。前のブログに書いたとおりです。
整体をはじめてしばらくの間、痛みがない限りその重要性に気づきませんでした。気づかない以上、技法を考え付くはずもなく、こんにちまで来てしまったのはなんという痛恨事でしょう。
腰痛という自覚症状がなくとも、ここの運動制限、拘束、ブロックを取り除くと、実に軽やかになり(瞑眩が出る場合もありますが)、身体を弛緩させたにも関わらず、締まった感じがするものです。また中長期的にも未病を防ぎ、身体全体の老化を遅らせることができます。身体の要、“肉月に要”という字はダテではありません。

このようにして“くびれ”があるところというのは重要な部位なのです。
ではホントの首についてはどうなんでしょう?
当然、首は重要です。これについては項を改めて述べてみたいと思います。

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くびれ

もともと“くびれ”とは語感と同じで首に関わるものです。
縊れるという字を書くと「首をくくって死ぬ」という意味になります。
首はまさに頭と胴の間にあってくびれているのですから、本来は「首れ」と書くべきものなのでしょう。

さて、そのくびれている身体の部位は何も首だけではありません。
そして、その部位は面白いことに首の字を使って表しております。
「足首」「手首」まさに首です。
ところが人体で最も“くびれ”が目立つ腰について「腰首」という言い方はしません。
これは和服の影響でしょうか。
和服は上腹部に帯を巻き、むしろ、腰のくびれを隠すためにあるような服装です。
朝鮮半島のチマ・チョゴリも女性の正装なのですが、同じように腰のくびれを隠しているかのようです。
腰のくびれはある種のセックスアピールみたいな感じを与えますので、朝鮮や日本はそれを嫌がった社会なのかもしれません。
ちょうどイスラム社会に女性の顔を隠す習慣があるのと似ているのではないかと思います。

さて、ここで文化論を述べるつもりはありません。
人体における“くびれ”のある部位というのはその運動制限がありますと、極めて重大な影響を与えてしまいます。
手首の運動制限はスポーツなどで痛めない限りあまり実感が湧かないと思いますが、一旦そういう状況に陥ると、とてつもなく不便さを感じるものです。
足首も同じで、ほとんど歩けなくなるほどです。

ここでお話するのは、明らかな外傷性のものではなく、日常意識できない程度の運動制限についてです。
ボクは足の専門家なので、施術の際、ザッと足を診て、ハリや力具合を見ます。あとは全息胚診断なり、脈診なりをするのですが、もう一つ、重要な視点があります。
なんと言っても足首の状態でしょう。動きに制限があるかどうか、これは非常に重要な要素なのです。
三関節原理を持ち出すまでもなく、本人が意識できない運動制限がありますと、身体全体のバランスが崩れ、やがて歪みとなって、身体に現れてくるものです。すでに現れているかもしれません。
また、足首は怪我をしやすい部位でもあります。
部活などを熱心にやった経験のある人は一度や二度、足首を挫いた経験があるのではないでしょうか。中には明らかな捻挫を経験している方もおり(それも複数回)、さらに骨折を経験している場合もあります。
このような方は十中八九、足首が拘束されているのです。
また“くびれ”がスキッとあるかどうか、というのも診方としては重要です。
これは美容的なものだけではありません。リンパ流の滞留の結果なのですから。
そして、如何にこの拘束を除去してあげるかということになるのですが、古傷の場合は実に難儀するものです。

つづく

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三水会&忘年会

今年、最後の三水会になってしまいました。
光陰矢のごとし、とはよく言ったものです。
人生、光も陰もあるのでしょうが、それらまとめてあっという間に過ぎ去っていくものだよ、と解釈しているのですが、如何でしょう?
一年がこんなスピードで過ぎ去るのですから、その積み重ねである人生だって、あっという間に過ぎ去るに違いありません。
西暦2000年を迎えたとき、今世紀最後の年かぁ、などと感慨に浸ることもなく、仕事で忙殺されておりました。
西暦2001年のとき、今年から21世紀だ!と感じ入る暇もなく、勤めていた学院がクローズしてしまい、21世紀などと思っている余裕もありませんでした。

2002年は麻布に来た年ですが、一人で明生館の絨毯を夜中の2時頃までコツコツと張り続けました。あと2ヶ月余りでなんと丸6年が経過します。あれから6年が経過しているなんて実感が湧きません。なんというスピードで過ぎ去っていくのでしょうか。

三水会も3年です。
ホントによく来てくださいました。心よりお礼申し上げます。
中には皆勤賞の方もいらして、凄いことだと、秘かに感心しております。
勉強する意思を持ち続けるということはホントに凄いことだと思います。
スクールの授業では、どんなに長い時間を割こうとも、全てを教えることはできません。
実践に入ってからこそがホントの勉強だと思います。
一人で勉強を続けていくのも一つの方法でしょうが、時間がかかります。また柔軟に思考形態を変えて身体を診るというのは独学ではほとんど無理でしょう。

このボクでさえ、毎日が驚きの連続です。
(これは新しいパターンだなぁ、まてよ、何かで読んだことがあるぞ、どうすれば良いんだったかなぁ)
こうして現実に機能する技法が生まれ、新しい症例に対応することができたり、できなかったり。すこしづつ、対応幅が広がっていくのは楽しいものでもあり、そこに至るまでは苦しい思いもしたりと、実に地味な作業の繰り返しです。
その地味な作業の中で啓発を受ける存在というのは貴重なものと思われます。

勉強会の意義はそういうところにもあるのですが、それぞれが成長の糧となって、一流の施術家になって頂ければという思いで主催して来ました。
(別に二流でもいいんですけど。三流の施術家でも偉そうなこと言っている某団体もあるくらいですから)
そうこうしているうちに早3年。
よくもまあついて来てくれましたわ。
(ときどきホントに理解してるのかいな?と思うこともあるのですが、ボクの苦い経験、感動経験をスッ飛ばして、結論を言うのですから、仕方ありませんねぇ)
そして忘年会の季節。
毎度行う懇親会と代わり映えしませんが、区切りという意味では意義のあることです。

さて、つまみはモツの煮込みを食おうか、酒は黒ホッピーにするか、はたまた、定番のウーロンハイにしようか、などと、勉強会のことなど、もはや頭になく、そんなことを考えている三水会当日の朝でした。

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前腕症候群

「なくて七癖」とはよく言ったものです。
その人の気づかない癖は最低でも七つはあるよ、ということなんですが、身体動作上、或いは、ある操作において、個人固有の動きというものがあります。

最近、この身体動作の癖を上手く利用して、それぞれ個人に合ったやり方、動作を行うことによって、スポーツなどが上手くなる、という本も出版され、テレビなどでも取り上げられる機会が多くなりました。

古武道ブームの次にくるのはこれか!と思っていたのですが、さすがにそこまでのブレイクはしていないようです。

確かに、松井型とイチロー型の身体の使い方には違いがあるな、と思います。
スポーツなどのコーチは一律に決めつけるのではなく、その人の身体の癖を生かしながら指導すれば、無駄なことが省け、または才能を潰すこともなく、よき選手にできるだろうにと思うキッカケになったものでした。
ボクも身体操作とそれに伴う身体動作を指導する立場にありますから、それぞれの個性をどういう形で見極めるか、ということを真剣に考えていたわけで、なるほど!と大いに共感したのものです。

前置きはこれくらいにして、本論に入りたいと思います。
ボク自身も当然ながら、癖があります。
その癖を矯正しつつ、こんにちまで来たのですが、どうしても完全に矯正しきれないものもあるのです。
それは、施術が続くと前腕がダルくなってしまうというものです。
随分、改善はしているのですが、まだ連続施術後はこの症状に苦しめられてしまうのでした。
原因は分かっております。
幼少時、右手の大怪我によって、手の平が開かなくなっているのに由来しているものなのですが、この異常のため、独特な体勢を強いられ、訴に至っているわけです。
原因は分かっていてもこれ以上の矯正は手術するより他ないわけで(実際、一度手術している)、改善は見込めません。
施術家にとって、手の平が充分に開かないというのはある意味、致命的なものかもしれません。それでもこうしてやっているわけですから、なにやら因縁めいた「業」みたいなものを感じてしまうのです。

この右手のお陰で随分と不便を強いられました。
この原稿もパソコンで打っているのですが、完全なホームポジションではできないのです。
まあ、秘書の仕事ではありませんから、ホームポジションブラインドタッチができなくとも、問題はありませんが、時々、アイディアに追いつかない指の動きがもどかしいわけです。
その他、楽器が弾けない(鍵盤楽器は物理的にできない)。
腕立て伏せができない(どうしてもやれと言われたら拳骨でやらなきゃいけない)。
良かった点をあえて言えば、右利きにもかかわらず左手も利くということくらいでしょうか。
今、ボールを投げろ、と言われたら、右手でも左手でも飛距離は同じくらいかな、とも思います。(むしろ、左手のほうが飛ぶかも)

こうして独特の体癖が形成されていったのです。
まあ、それはそれで仕方ありません。
問題は事実を認め、如何にケアーするか、ということになるのですから。

幸いにして前腕部はセルフケアーするにはやりやすいところではあります。
施術後、無意識に揉んだり、押したりしておりました。
クールダウン用のクリームがあればそれを塗り、いよいよつらいときはバイブレーションマッサージ器で、解したりして。
それでもいまいちです。

あるとき、クールダウン用クリームを塗り、何を思ったか、経絡線上をゆっくりとドレーナジュ技法で指を滑らせていきました。
陽経、陰経ともに丹念にやったのです。
すると、あ~ら不思議、即効でダルさが消えました。
ふ~む、これは良いかも!ダルさがビッと消えて、リフレッシュ!
これがホンマのダルビッシュや~などと彦麻呂風にオヤジギャグを飛ばし、一人満足しておりました(勿論、人前では言いません)。

加減は結構難しく、フリクションとドレナージュの中間くらいの強さでしょうか。
強すぎてもかえってダルさが残ってしまいますし、弱すぎては全く効きません。
色々試してみましたが、うまく出来るようになればこの方法はホントに良い方法だと思います。

そこで同じような症状を持つクライアントが来れば是非やってあげたいと思っているのですが、普通は前腕よりも首、肩、腰などに症状を持つ人が多く、試す機会がありません。
宝の持ち腐れです。
いつか前腕症候群のクライアントが来ないものか、と秘かに心待ちにしているのでした。

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経絡反応とクラニアル5

ところが、マイナーリーグにも関わらず、頭部には「百会」という正穴が設定されております。「百会」とは百脈が一同に会する処という意味です。
この場合の百とは「千の風になって」の千と同じで、具体的な数字を意味するものではありません。あらゆる、すべての・・という形容詞だと思って頂ければよいかと思います。
脈とは経脈、絡脈のことですから、つまり、あらゆる経絡がその部位に集まってくる処だよ、という意味になります。
正確な部位については争いがあるところで、術者によって取穴位置が違います。
しかし、矢状縫合上であることは間違いないのです。

マイナーリーグにも関わらず、そのような名称を与えているところから考えても、東洋医学の起源が単一のものではないという証明にもなるのですが、本論とは関係ない話なので省略します。
いずれにしても、東洋医学史上の一時期、矢状縫合上にすべての経絡反応があると考えた古人がいたわけで、直感的センスが鋭い人達だったのでしょう。
現在、「百会」はせいぜい、痔を治すツボくらいにしか考えられていないのは退化以外の何物でもないと思うわけです。むしろ、オステパスのほうが、根源的脳脊髄液循環を検知し、促進すると捉えており、より百会の名称に値するような考え方をしております。

ここを触ると(解剖学的にはブレグマと呼びます)、まさに経絡反応の極点を感じるわけで、最終的には理屈ではなくなります。
そうは言っても、ある程度の正当性を示さねばならない、というところから、この度の解明を試みてみました。

部位的にも操作的にも、頭蓋は経絡反応(感情的変化)を感じやすく、術者にも安らぎを与えてくれるわけですが、この一点を指圧などで強圧するのはなんとしても解せません。
そもそも人体の正中線上は急所が多く、武道などでは、その部分を衝かれない工夫をするものです。しかし、ブレグマは攻撃されづらい部位にあり、実践上、無視できる部位かとも思いますが、一度、この部位を強圧されれば、いかほどのダメージがあるか、分かると思います。
ボクなんかは自分で加減して強打しても、2~3日具合が悪かったですもの。
活点と殺点は共通するのです。
一撃で殺せる隠れた急所でもあり、全経絡を活性させ得る部位でもあるのです。

いずれにせよ、クラニアル操作の中で術者と被術者の交流が置き、被術者の生命力の解放と同時に施術者もまた至福感に包まれるということは間違いありません。
経絡反応というものを肌で実感したければ、「クラニアル手技を行え!」
このことを主張している施術家がいるなどとは寡聞にして聞いたことがありません。
ですから、経絡治療の盲点中の盲点ではあります。

そしてそれはホロヴィッツやイチローなどの才能などなくとも、一定の訓練で会得しえる感覚でもあるのです。

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経絡反応とクラニアル4

ボクはそれに気づきました。
自分ができたとしても、下手すれば1万人目にようやくそれができる生徒にめぐり合えるということになります。じゃあ、あとの9999人は一体どうなるのか?
屍累々ではないか、と。
努力は才能を上回るといいいますが、死ぬほどピアノの練習をすることによって、誰もがホロヴィッツなれるでしょうか?死ぬほど野球に打ち込んだからと言って、誰もがイチローになれるでしょうか?
否です。これが現実なのです。

ある操作を加えて、境界が界面に変化するその様を明瞭に認識できる能力は限られた者しかできないのです。(漠然とならかなりの確率でできます)

ところが、タッチは身体的作為(負荷)、心理的作為が極端に少なくて済みます。
そうすると、相手との融合、共感をとても得やすくさせます。
つまりダイレクトに経絡反応を感じとることができるということになるのです。

理論的には頭でなくとも、身体のどこでもタッチによって感じ取りやすくなりますが、現実問題として、頭以外の5グラムタッチは実用的ではありません。
余程、クライアントが優れた感性を持っているか、施術者が強い気を持っていないと(普通は両方必要)、何やってんだこのオッサンは!になってしまい、マーケットが限られてくることでしょう。趣味でやるならまだしも、お金を頂く以上、操作し身体に変化を与えているのだと実感させねばなりません。
そうすると押すか、揉むか、伸ばすか、揺らすか、屈するか、しかなくなります。
5グラムタッチは実用上、頭だけに許された特権でもあるわけです。

(それでもヘッドマッサージや、頭指圧に慣れたヒトは怪訝な感じを少数ですが持つくらいです)

次に、クラニアルが何故、経絡反応の極点を導き出すのか?という問題。
オステオパシー的な説明はしません。またできるものでもありません。
古来より東洋医学は六臓六腑でやってきました。
脳が司る感情の部分さえこの六臓六腑に配当したのはご承知の通りです。
東洋医学で脳は「奇恒の腑」といってメインには考えていないのです。
「六臓六腑」がメジャーリーグなら、「奇恒の腑」はマイナーリーグのようなものかもしれません。
ところが・・

つづく

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経絡反応とクラニアル3

ボクがクラニアル手技を好むのは、このリラックス感や心地よさが他の部位に比べ極端に現れやすいからかも知れません。
実はクラニアルのとき、CRIの検出のときも、Vスプレットのときも、顔面骨へのアプローチのときも完全に自分自身が癒されております。
動きが回復し、相手の生命力が解放されたとき、その感覚はピークになります。
いつまでもやっていたい衝動にさえかられます。
クライアントは大概、完落ちの状態ですが、それでもまさに経絡反応の極点を感じつつ施術できるのですから、なんと幸せな施術者なんだろう!と思うこと度々です。

こういう手技を一部のオステオパスだけの占有物にするのは勿体ない、広く取り入れてもらえば、こんな良いことはないんじゃないか!と思い、受講科目の一つに入れたわけです。幸せのおすそ分けです。

勿論、最初はストレスが溜まるかもしれません。集中できない、感じ取れない、などなどの理由によって。
確かに、ボクも授業で試しにやってあげるクラニアルは集中できず、疲れるばかりで、何の面白さもありません。実践上のほうが集中でき、感じ取れるので、クラニアルの試技は避けたいくらいなのですが、仕方ありません、それが仕事の一部であれば。

結局、CRIの検出といっても、物理的変化のみならず、自身の感情的変化を頼りにするわけですから、フルフォード型に近づいているのかもしれません(或いはクラニアルの増永バーションのようなものか)

何故、クラニアル・マニピュレーションが経絡反応の極点を導き出し、それがそのまま施術者側に伝わってくるのか?
色々な角度、切り口から説明できると思うのですが、施術者の身体特性の面から一言。

まず、クラニアル・マニピュレーションと言えば、5グラムタッチです。
これはタッチであって、押すものでも、揉むものでも、揺らすものでもありません。
タッチなのです。

普通、施術操作というのは押し、揉み、揺らし、伸ばす、屈するなどがイメージされますが、タッチはどの区分にも入りません。
どこが違うかというと、施術者の作為が物理的にもっとも入りづらいものだと思います。
どんなに上手く押圧ができても、どんなに上手く揉むことができても、どんなに上手く揺らすことができても、施術者の身体には負荷がかかってきますし、心理的な意図が入り込んできます。
それなくして、できるというようなヒトは昔でいえば剣術の達人にもなれるようなヒトたちで、確率から言えば、一万人に一人の身体感覚能力の持ち主です。
だから、繰り返し繰り返し、増永師が「支え圧」という表現を使い、意図的な力を使わない手技を提唱しても、形はできるのですが、そこから経絡の認識に至るヒトはでてこないのです。尊敬し、憧れてもマネができないわけです。
若し、貴方が一万人に一人の身体能力を持っていなかったとしたら、悲劇です。
一生、画餅に終わるでしょう。

つづく

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経絡反応とクラニアル2

感情と密接に結びつけているところに東洋医学の真骨頂があるわけで、そのことを度外視して東洋医学は語れません。
経絡とは人体図に書かれた線でも、反応点を表しているのでもなく、感情的変化を体表面で物理的に視覚化したイメージ図なのです。

何度も言いますが、経絡反応を起こさせるのに、その手段は手技だけでも、鍼、お灸だけでも、漢方薬だけでもありません。日常生活上、あらゆる「縁」が経絡反応を引き起こす要因になるのです。音楽療法があるのも、芳香療法があるのも、アニマルセラピーがあるのも経絡反応が起き得るが故のことなのでしょう。
では、寝てしまったクライアントは感情的変化を伴わないので、経絡反応を引き起こすことが出来ないのではないか?という疑問も出てくるかと思います。
しかしヒトの意識はそんな底の浅いものではありません。
意識不明の場合でもその時の状況を思い出す人もいますし、全身麻酔をかけらて尚、しかるべく誘導で思い出す人は枚挙に暇がありません。

クライアントで極端な先端恐怖症の方がいました。
その身内の方の話を聞いて納得したことあります。
そのクライアントさん、生後数ヶ月で涙腺が詰まり、目の中に針を入れ詰まりを取る処置をしたのだそうです。勿論、本人は生後数ヶ月のことですから、覚えているはずもないのですが、潜在意識の奥深くではその恐怖を覚えており、それがトラウマとなっていたのでした。
意識がなくても、実は感情的変化は刻々と起きていて、むしろ、理性の邪魔が入らない分、ダイレクトに潜在的な感情変化を引き起こしているものと思われます。

話を戻します。
感情的変化を引き起こすものが=経絡反応であるならば、施術においても絶えず感情的変化を与えているに違いありません。そのことがそのクライアントの経絡反応なのです。
それは心地よさとか、一種の解脱感とか、言葉は色々作れますが、語彙の多寡によってそれを表す言葉が変わります。

では施術者側はどう捉えるのか?
かつて増永師の著作を読んだとき、感心した一説があります。
自他を分け隔てている皮膚、(つまり施術者とクライアントの皮膚同士)が自他を分ける境界ではなく自他を融合させる界面となる・・云々。

難しい表現ですが、日常よく経験することです。
暗く愚痴ばかりこぼす人と話していると、こっちまで気が滅入ってしまいます。逆に明るく朗らかな人と話と、その人が嫌いでない限り、こちらの気分まで朗らかになってきます。
当然といえば当然のことなのですが、経絡反応という難しい言葉で考えるから、この常識的なことがよく分からなくなってくるのです。
施術をして相手の気分が落ち着き、リラックスしてくると施術者側までリラックスし気分が落ち着いてきますし、心地よさが感じられてくるものです。
これが、皮膚同士が自他を融合させる界面に変化した瞬間なのです。
このときがまさに経絡反応を感情的に感じ取った瞬間でもあり、経絡を認識した瞬間でもあるのです。

つづく

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経絡反応とクラニアル1

我々は学校教育の中で基本的な学問の基礎知識を教えられます。
ちゃんと覚えているかどうか?当然、その効果を測定したくなりますわね。
そこで試験というものがあるわけです。
悩まされましたよねぇ。点数がハッキリついてしまう。順番までついて、進学する先、最終的には就職する先まで規定されてしまうわけです。
教えられたことを理解しているかどうかを示すには、明確な知識として、文字として、或いは数式として表現しなければならない教育を受けてきました。
問題に誤りがなければ答えというものは大概一つなのです。

実は経絡を診る心というのはこの学校教育で受けた「理解する心持」というのがとても邪魔になります。
例えば、経絡を勉強する際に経絡人形なり経絡図表を見て頭に入れたとします。
で、自分の腕を眺め、その経絡を見ようとしても、そこにあるのは皮膚ばかりでケイラクのケの字も見えてこないはずです。

結論からいうと、経絡は理解するものじゃなくて感じるものなんです。
入試で「感じたままを記せ」という問題は出ないはずです。
一つの現象に対して何を感じるのか、というのは個性の問題ですから。
朝日新聞と産経新聞の論調がまるで違うのと同じです。
じゃ、どう感じるのか、という質問も出ると思いますが、その問い自体にマニュアル的な学校教育の弊害が出ています。
感じるものは感じるものであって、理屈じゃない部分があるわけです。

中学生時代、ビートルズが大好きな友人がいました。
ボクは音楽のことはよく分かりませんので、どこが良いんだ?という問いを発したことが何度もありましが、納得いく答えを貰ったことはありません。
考えてみれば当たり前の話で、こういうのは説明できる類のものじゃありません。
感性としか言いようのないものです。
彼(友人)はビートルズを聴くと、落ち着くとか、鼓舞されるとか、浄化されるとか、そういう感情の変化を感じていたに違いありません。
理屈で説明できないものが感情なのです。音楽は感情を変化させ得るが故に芸術なのだろうと思う次第。
経絡はこの感情の、つまり理性的なものとは違う感覚で捉えねば、永久に理解することはできないのです。理解しようと思えば思うほど逃げていきます。

別に施術でなくとも、感情的変化を伴う「縁」は全て経絡反応を引き起こすものと考えていいと思います。
音楽は勿論、絵心のある方は一幅の絵によっても劇的に感情が変化するでしょう。
恋人に会うときも、子供を愛おしく思うときもこれらは全て経絡反応と考えてもいいのです。
古典は各臓腑に感情を配当し、その臓腑名を経絡の名に与えています。
ここに深い意味があるのです。

つづく

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酢だけつけて食べる餃子

餃子といえば宇都宮。
たまたま宇都宮餃子を食べる機会がありました。
その餃子は某有名店のもの。
食してみると、まあ普通に美味い。
しかし、特別にすごく美味いというような感じはしませんでした。
むしゃむしゃ食べるわけでもなく、2つほど食べて箸をおきました。

さほどの感動がないようなボクの態度をみて、ある人が、醤油もラー油もつけないで酢だけで食べてごらんなさいや、と言いました。
酢は嫌いですから、気乗りしませんでしたが、折角の提案で、しかも、酢だけを小皿に入れて持って来てくれましたので仕方ありません、ほんのわずか酢をつけて食べました。
すると・・・
(ん?ん~??あれあれ?)

「なんか皮の味がする、餃子の皮の味がしますねぇ・・・美味いわ!これは!」
とボクが申したところ、その人はわが意を得たり、とばかりに、
「でしょう!美味い餃子は皮が美味いんだよ!そのうま味は醤油やラー油が邪魔になることがあってね、だから、酢だけで食うと美味さが分かるんだな、これが」

実際、美味いのです。
なるほどなぁ、と納得しました。
餃子も奥が深いものです。
普通に美味いがすごく美味い、に変化したのですから。
素朴な皮という素材。
考えてみれば皮がなければ、餃子という食べ物は成り立ちません。
その皮を作る工程にその餃子の美味しさの秘密があったのです。

真剣に美味いものを食わせようとしているお店は相当な努力をしているものなのですね。
単にお客だからというわけで、通り一遍の食い方をせず、食べる側にもその美味さを引き出す真剣さというものが必要なのでした。
ボクは食通ではありませんので、どうすれば美味く食えるか、なんてことは考えたこともありませんでした。餃子の皮に注意を払うなんてことも勿論ありません。
自らも職人的な仕事をしているくせに、これは迂闊でしたねぇ。

その有名店の心意気というものが感じられて少し嬉しくなった次第です。

これから餃子を食うときは、まず酢だけで食してみて、そのお店の心意気を感じ取ろうと思います。
(嫌な客になりますねぇ)

※百話28更新しました。

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椎間関節の潤滑3

この技法は基本的にクライアントを横向きに寝かせねばなりません。
うつ伏せですと、微妙な関節の動きを促進できないのです。
ところが、横向きはクライアントにとって、もっともリラックスできる姿勢なのですが、施術者にとっては、安定的な体を維持するのに、ある意味熟練が要求されます。
また一口に横向きと言っても、うつ伏せや仰向けと違い、クライアントが取る体勢というのは様々です。胎児のように丸まる方、ピンと伸ばして寝る方、ほとんどうつ伏せに近い形の体勢をとる方。まあ、実に様々です。ある程度の指示は必要ですが、身体的にどうしてもその体勢がキツイという方もいるので、施術者のほうが合わせねばならない場面もあって、それぞれのバリエーションを持たねばならないのです。

要は慣れなのですが、まずこの部分で戸惑うことになるでしょう。
安定感の中にある横向き特有の不安定性を利用するこの技法はおそらく他に類を見ないものかと思います。
あえて言えば増永師の横向き施術に似ていないこともないのですが、診る観点が違うためやはり別物です。

いずれにせよ、この体勢で頚椎、胸椎、腰椎の各椎間関節を一つ一つ潤滑させていくのですが、特に潤滑されていない箇所については時間をかけます。
潤滑されていない箇所が分かるのか?という疑問もあるでしょうが、自分の手指というのは自分が思っている以上に賢いものです。無心で100回も施術すれば必ず分かるようになります。そのことよりもむしろ技法自体が難しいのでそちらの修得に時間がかかるやもしれません。

こうして、片側20分~30分の施術時間を割き、両側で40分~60分見ておけば、ほぼ潤滑されていくものです。

何故、椎間関節の潤滑で様々な愁訴に対応できるのか?という質問は愚問です。
何故、足揉みで病気が治るのか?という質問と同じくらいの愚問だと思うのですが、如何でしょう?
どのようなレベルで回答しても、その回答はその療法の持つ機序の一部でしかありません。
色んな理屈をこねても結局、西洋医学的な意味では分からないのです。
従いまして、我々、施術家は「施術者が行う操作によってクライアント自身の自己治癒力を発動させ得るもの」と定義する他ないのです。その方法論が様々なのであって、幅広い対象に運用できるものか、特定、特殊なヒトにしか対応できないものか、或いは、その中間くらいのものなのか、それが手技における「証」とも言えるわけです。
「椎間関節潤滑不全の証」と言えば、その語感から極めて特殊な証のような感じを受けますが、ある年齢を過ぎる頃にはかなり普遍的な「証」であることが判明したためこうして書いているわけです。

※西洋医学では「椎間関節症」という病態があります。専門に研究している医学者もいますが、診断基準が未だハッキリしていません。厳密に言えば、病態が確立していないとも言えます。何故なら、レントゲン、MRIなどで明らかな椎間関節の亜脱臼などの障害があると視認できるにも関わらず、症状はそこには出ていなくて、別のところに出ていることが多々あるためです。整体的には経絡を持ち出すまでもなく、トリガー理論などでもその現象を容易に説明することが出来るのですが、現代医学は明確なエビデンスを必要とするため、困惑し、難儀しているという状況なのです。そんなことを言えば、椎間板ヘルニアであっても同じです。障害の程度と愁訴が比例しないのですから。「椎間関節潤滑不全の証」と「椎間関節症」とは全く別のものであるとご承知置きください。

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