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経絡反応とクラニアル

(一)

我々は学校教育の中で基本的な学問の基礎知識を教えられます。
ちゃんと覚えているかどうか?当然、その効果を測定したくなりますわね。

そこで試験というものがあるわけです。
悩まされましたよねぇ。点数がハッキリついてしまうわけで。

順番までついて、進学する先、最終的には就職する先まで規定されてしまうわけです。

教えられたことを理解しているかどうかを示すには、明確な知識として、文字として、或いは数式として表現しなければならない教育を受けてきました。
問題に誤りがなければ答えというものは大概一つなのです。

実は経絡を診る心というのはこの学校教育で受けた「理解する心持」というのがとても邪魔になります。

例えば、経絡を勉強する際に経絡人形なり経絡図表を見て頭に入れたとします。
で、自分の腕を眺め、その経絡を見ようとしても、そこにあるのは皮膚ばかりでケイラクのケの字も見えてこないはずです。

結論からいうと、経絡は理解するものじゃなくて感じるものなんです。
入試で「感じたままを記せ」という問題は出ないはずです。

一つの現象に対して何を感じるのか、というのは個性の問題ですから。
朝日新聞と産経新聞の論調がまるで違うのと同じです。

じゃ、どう感じるのか、という質問も出ると思いますが、その問い自体にマニュアル的な学校教育の弊害が出ています。感じるものは感じるものであって、理屈じゃない部分があるわけです。

中学生時代、ビートルズが大好きな友人がいました。
小生は音楽のことはよく分かりませんので、どこが良いんだ?という問いを発したことが何度もありましが、納得いく答えを貰ったことがありません。

考えてみれば当たり前の話で、こういうのは説明できる類のものじゃないのです。
感性としか言いようのないものですね。彼(友人)はビートルズを聴くと、落ち着くとか、鼓舞されるとか、浄化されるとか、そういう感情の変化を感じていたに違いありません。

理屈で説明できないものが感情なのです。音楽は感情を変化させ得るが故に芸術なのだろうと思う次第。経絡はこの感情の、つまり理性的なものとは違う感覚で捉えねば、永久に理解することはできないのです。理解しようと思えば思うほど逃げていきます。

別に施術でなくとも、感情的変化を伴う「縁」は全て経絡反応を引き起こすものと考えていいと思います。

音楽は勿論、絵心のある方は一幅の絵によっても劇的に感情が変化するでしょう。
恋人に会うときも、子供を愛おしく思うときもこれらは全て経絡反応と考えてもいいのです。

古典は各臓腑に感情を配当し、その臓腑名を経絡の名に与えています。
実はここに深い意味がありました。

(二)

感情と密接に結びつけているところに東洋医学の真骨頂があるわけで、そのことを度外視して東洋医学は語れません。

経絡とは人体図に書かれた線でも、反応点を表しているのでもなく、感情的変化を体表面で物理的に視覚化したイメージ図なのです。

繰り返しますが、経絡反応を起こさせるその手段は手技だけでも、鍼、お灸だけでも、漢方薬だけでもありません。

日常生活上、あらゆる「縁」が経絡反応を引き起こす要因になるのです。音楽療法があるのも、芳香療法があるのも、アニマルセラピーがあるのも経絡反応が起き得るが故のことなのでしょう。

では、寝てしまったクライアントは感情的変化を伴わないので、経絡反応を引き起こすことが出来ないのではないか?という疑問も出てくるかと思います。

しかしヒトの意識はそんな底の浅いものではありません。
意識不明の場合でもその時の状況を思い出す人もいますし、全身麻酔をかけらて尚、しかるべく誘導で思い出す人は枚挙に暇がありません。

クライアントで極端な先端恐怖症の方がいました。その身内の方の話を聞いて納得したことあります。

そのクライアントさん、生後数ヶ月で涙腺が詰まり、目の中に針を入れ詰まりを取る処置をしたのだそうです。勿論、本人は生後数ヶ月のことですから、覚えているはずもないのですが、潜在意識の奥深くではその恐怖を覚えており、それがトラウマとなっていたのでした。

意識がなくても、実は感情的変化は刻々と起きていて、むしろ、理性の邪魔が入らない分、ダイレクトに潜在的な感情変化を引き起こしているものと思われます。

話を戻します。
感情的変化を引き起こすものが=経絡反応であるならば、施術においても絶えず感情的変化を与えているに違いありません。そのことがそのクライアントの経絡反応なのです。

それは心地よさとか、一種の解脱感とか、言葉は色々作れますが、語彙の多寡によってそれを表す言葉が変わります。

では施術者側はどう捉えるのか?
かつて増永師の著作を読んだとき、感心した一説があります。

自他を分け隔てている皮膚、(つまり施術者とクライアントの皮膚同士)が自他を分ける境界ではなく自他を融合させる界面となる・・云々。

難しい表現ですが、日常よく経験することです。

暗く愚痴ばかりこぼす人と話していると、こっちまで気が滅入ってしまいます。逆に明るく朗らかな人と話と、その人が嫌いでない限り、こちらの気分まで朗らかになってきます。

当然といえば当然のことなのですが、経絡反応という難しい言葉で考えるから、この常識的なことがよく分からなくなってくるのです。

施術をして相手の気分が落ち着き、リラックスしてくると施術者側までリラックスし気分が落ち着いてきますし、心地よさが感じられてくるものです。

これが、皮膚同士が自他を融合させる界面に変化した瞬間なのです。
このときがまさに経絡反応を感情的に感じ取った瞬間でもあり、経絡を認識した瞬間でもあるのです。

(三)

ボクがクラニアル手技を好むのは、このリラックス感や心地よさが他の部位に比べ極端に現れやすいからかも知れません。

実はクラニアルのとき、CRIの検出のときも、Vスプレットのときも、顔面骨へのアプローチのときも完全に自分自身が癒されております。

動きが回復し、相手の生命力が解放されたとき、その感覚はピークになります。
いつまでもやっていたい衝動にさえかられます。

クライアントは大概、完落ちの状態ですが、それでもまさに経絡反応の極点を感じつつ施術できるのですから、なんと幸せな施術者なんだろう!と思うこと度々です。

こういう手技を一部のオステオパスだけの占有物にするのは勿体ない、広く取り入れてもらえば、こんな良いことはないんじゃないか!と思い、受講科目の一つに入れたわけです。幸せのおすそ分けです。

勿論、最初はストレスが溜まるかもしれません。集中できない、感じ取れない、などなどの理由によって。

確かに、小生も授業で試しにやってあげるクラニアルは集中できず、疲れるばかりで、何の面白さもありません。実践のほうが集中でき、感じ取れるので、クラニアルの試技は避けたいくらいなのですが、仕方ありません、それが仕事の一部であれば。

結局、CRIの検出といっても、物理的変化のみならず、自身の感情的変化を頼りにするわけですから、フルフォード型に近づいているのかもしれません(或いはクラニアルの増永バーションのようなものか)

何故、クラニアル・マニピュレーションが経絡反応の極点を導き出し、それがそのまま施術者側に伝わってくるのか?

色々な角度、切り口から説明できると思うのですが、施術者の身体特性の面から一言。

まず、クラニアル・マニピュレーションと言えば、5グラムタッチです。
これはタッチであって、押すものでも、揉むものでも、揺らすものでもありません。
タッチなのです。

普通、施術操作というのは押し、揉み、揺らし、伸ばす、屈するなどがイメージされますが、タッチはどの区分にも入りません。

どこが違うかというと、施術者の作為が物理的にもっとも入りづらいものだと思います。
どんなに上手く押圧ができても、どんなに上手く揉むことができても、どんなに上手く揺らすことができても、施術者の身体には負荷がかかってきますし、心理的な意図が入り込んできます。

それなくして、できるというようなヒトは昔でいえば剣術の達人にもなれるようなヒトたちで、確率から言えば、一万人に一人の身体感覚能力の持ち主です。

だから、繰り返し繰り返し、増永師が「支え圧」という表現を使い、意図的な力を使わない手技を提唱しても、形はできるのですが、そこから経絡の認識に至るヒトはでてこないのです。

尊敬し、憧れてもマネができないわけです。
若し、貴方が一万人に一人の身体能力を持っていなかったとしたら、悲劇です。
一生、画餅に終わるでしょう。

(四)

小生はそれに気づきました。

仮に自分ができたとしても、下手すれば1万人目にようやくそれができる生徒にめぐり合えるということになります。じゃあ、あとの9999人は一体どうなるのか?
屍累々ではないか、と。

努力は才能を上回るといいいますが、死ぬほどピアノの練習をすることによって、誰もがホロヴィッツなれるでしょうか?死ぬほど野球に打ち込んだからと言って、誰もがイチローになれるでしょうか?
否です。これが現実なのです。

ある操作を加えて、境界が界面に変化するその様を明瞭に認識できる能力は限られた者しかできないのです。(漠然とならかなりの確率でできます)

ところが、タッチは身体的作為(負荷)、心理的作為が極端に少なくて済みます。
そうすると、相手との融合、共感をとても得やすくさせます。
つまりダイレクトに経絡反応を感じとることができるということになるのです。

理論的には頭でなくとも、身体のどこでもタッチによって感じ取りやすくなりますが、現実問題として、頭以外の5グラムタッチは実用的ではありません。

余程、クライアントが優れた感性を持っているか、施術者が強い気を持っていないと(普通は両方必要)、何やってんだこのオッサンは!になってしまい、マーケットが限られてくることでしょう。

趣味でやるならまだしも、お金を頂く以上、操作し身体に変化を与えているのだと実感させねばなりません。

そうすると押すか、揉むか、伸ばすか、揺らすか、屈するか、しかなくなります。
5グラムタッチは実用上、頭だけに許された特権でもあるわけです。

(それでもヘッドマッサージや、頭指圧に慣れたヒトは怪訝な感じを少数ですが持つくらいです)

次に、クラニアルが何故、経絡反応の極点を導き出すのか?という問題。

オステオパシー的な説明はしません。またできるものでもありません。

古来より東洋医学は六臓六腑でやってきました。
脳が司る感情の部分さえこの六臓六腑に配当したのはご承知の通りです。

東洋医学で脳は「奇恒の腑」といってメインには考えていないのです。
「六臓六腑」がメジャーリーグなら、「奇恒の腑」はマイナーリーグのようなものかもしれません。

(五)

ところが、マイナーリーグにも関わらず、頭部には「百会」という正穴が設定されております。「百会」とは百脈が一同に会する処という意味です。

この場合の百とは「千の風になって」の千と同じで、具体的な数字を意味するものではありません。あらゆる、すべての・・という形容詞だと思って頂ければよいかと思います。

脈とは経脈、絡脈のことですから、つまり、あらゆる経絡がその部位に集まってくる処だよ、という意味になります。

正確な部位については争いがあるところで、術者によって取穴位置が違います。
しかし、矢状縫合上であることは間違いないのです。

マイナーリーグにも関わらず、そのような名称を与えているところから考えても、東洋医学の起源が単一のものではないという証明にもなるのですが、本論とは関係ない話なので省略します。

いずれにしても、東洋医学史上の一時期、矢状縫合上にすべての経絡反応があると考えた古人がいたわけで、直感的センスが鋭い人達だったのでしょう。

現在、「百会」はせいぜい、痔を治すツボくらいにしか考えられていないのは退化以外の何物でもないと思うわけです。むしろ、オステパスのほうが、根源的脳脊髄液循環を検知し、促進すると捉えており、より百会の名称に値するような考え方をしております。

ここを触ると(解剖学的にはブレグマと呼びます)、まさに経絡反応の極点を感じるわけで、最終的には理屈ではなくなります。

そうは言っても、ある程度の正当性を示さねばならない、というところから、この度の解明を試みてみました。

部位的にも操作的にも、頭蓋は経絡反応(感情的変化)を感じやすく、術者にも安らぎを与えてくれるわけですが、この一点を指圧などで強圧するのはなんとしても解せません。

そもそも人体の正中線上は急所が多く、武道などでは、その部分を衝かれない工夫をするものです。しかし、ブレグマは攻撃されづらい部位にあり、実践上、無視できる部位かとも思いますが、一度、この部位を強圧されれば、いかほどのダメージがあるか、分かると思います。

小生などは自分で加減して強打しても、2~3日具合が悪かったですもの。
活点と殺点は共通するのです。

一撃で殺せる隠れた急所でもあり、全経絡を活性させ得る部位でもあるのです。

いずれにせよ、クラニアル操作の中で術者と被術者の交流が置き、被術者の生命力の解放と同時に施術者もまた至福感に包まれるということは間違いありません。

経絡反応というものを肌で実感したければ、「クラニアル手技を行え!」
このことを主張している施術家がいるなどとは寡聞にして聞いたことがありません。
ですから、経絡治療の盲点中の盲点ではあります。

そしてそれはホロヴィッツやイチローなどの才能などなくとも、一定の訓練で会得しえる感覚でもあるのです。

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