茶飲み話
漢方の真髄は体系だった学問書よりも、清談の中にこそある、と誰かの言を引用して書いていたのは大塚敬節先生だったような。
漢方を含め東洋医学は確かに学問というより“術”の色彩が濃いものです。
手技などはまさしくそうで「施術」というくらいですからね。
“術”は体系というよりコツというか五体で感じるセンスというか、頭での理解を超える部分が大方を占めています。
当然、体験の中で培った何かが、やはり体験の中で培った師の何気ない言葉にビビッと反応する瞬間があるような気がします。
論理的に納得するというのではなく、(なるほど!なるほどそうか!)と膝を打つ場面。
これには当然、弟子も相当な修練を積んでいるということが前提になるのですが、それにしても、改まった講義ではなく、茶飲み話の中で真髄が語られ、悟りにも似た理解を得たきたという連綿たる歴史が漢方にはあることを知ったのは有益でした。
こうして漢方が発達し、続いてきたというのは、現在のマスプロ教育と対極をなすものであることは間違いないでしょう。
それ以来、小生は茶飲み話風な中に自分の経験を交えながら、真髄とまでは言えないまでも、その時点で到達した考えや、アイデアを語るようになったのは言うまでもありません。
たとえ聞く者がその時点では全く理解できないだろうと思ってもです。
続けていけばいつか分かるだろうと。本質的に小生は楽観論者なのです。
しかし、時代は悠長に茶飲み話などしている暇などなくなりました。
それぞれ仕事を抱え、やることが山ほど。
てっとり早く、役に経つ方法を教えねばなりません。手っ取り早くと言っても、その場にそのようなクライアントがいなくては教えられないこともたくさんあります。また、その背景を理解して頂かなければ、意味が全く分からない事柄もあります。
ここにジレンマがあるわけです。
かつて、他の整体学校に通っている生徒さんが来院されたことがあります。
その学校の様子を聞くと、正直驚いたこと、驚いたこと。
2年くらいの履修期間だったような。
毎日行く義務はないのですが、当然、毎日行っても良いようでした。
行って何をするのか、というと、改まった講義はなし、ということは実技主体です。
この実技をたまたま来た同期生、あるいは先輩とやりあうわけですね。講師は要所要所教えるようです。それがずっと続くわけ。
とりわけ面白いと思ったのは昼ごはん。これは来た者全員、学校で作り、食するのだそうです。合宿制に似てなくもないのですが、泊まるところは各自別です。
相撲部屋でちゃんこ鍋を皆でつつくようなそんなイメージでしょうか。
しかし、解剖、生理の改まった講義もないようですし、そもそもこんな形態の整体スクールがあっていいものでしょうか。全く理解できませんでした。
授業料も国家資格を取る指圧学校にやや近いくらいです。
まあ、なんだってそんな学校に入ったものかなぁ、というのが正直な感想でした。
しかし、考えてみれば案外こういう形態の学校も良いのかもしれません。お金と時間に余
裕がある方は。これだけ接する機会があれば経験豊富な講師の話をそれこそ茶飲み話(食事でもいいのですが)に聞くこともあるでしょう。
将来の不安やどうやって開業するのかをジックリ相談する機会もあるでしょう。最初はカッコつけていてもこれだけ長くいて、しかも同じ釜の飯を食っていれば、やがて本音も出るでしょう。モチベーションが上がるか下がるかはその人次第ですが、卒業するころには相当な自信が芽生えている人が多いに違いありません。
システマティックなカリキュラムもまた合理的で良いとは思いますが、ある種の人たちにとってはこういうのも一つのやり方なんだなぁ、と思いました。
勿論、誰もがこういう形態に合うとは思いませんけどね。
またある人の主催しているスクールは主宰者が大手の講師だった方のようです。その授業は格好いいようですが、実践で食っていくことが難しいと本人はずっと思っていたようです。
そこで開業しても食べていける卒業生を育てるべく思い切って自身、独立してスクールを立ち上げたわけですが、写真を見る限り、増永先生のやり方によく似ていたのは微苦笑でした。
でもまあ、そこそこ生徒が集まってきているらしい。カリキュラムもかなり他所とはかなり違うシステムです。
この両方の例を見ていると、何かこう昔の漢方的な徒弟制度に似ていなくもありません。
教える者のジレンマが手に取るように分かる小生としては、あながち時代遅れと退けることなど出来ないものです。
或いは時代は(少なくともこの業界は)大手のシステム化されたカリキュラムに飽きてきているのかもしれません。