チャングムはいたか?
何度も言いますが、小生、ドラマは観ていません。
しかし、小説を読む限りにおいてもチャングムの天才ぶりには驚かされます。
あんな小さい頃から、診立てが出来て、生薬一つ一つの薬効についてもスラスラと諳んじることができるのですから驚きです。
実在のモデルはいるにせよ、所詮は小説。作者の想像力の賜物のような気がしないでもありませんでした。
ところが、日本でも漢方の名医の中には早熟の天才ぶりを発揮した人の記録が残っているのです。たとえば・・・
大塚敬節先生といえば、初代北里大学東洋医学研究所の所長をつとめた近代漢方の大御所であったことは関係者なら周知の事実です。
この先生の曾祖母に当たる人がよく言っていたそうです。
「私は八歳で医者をやった」と。幼なかった大塚先生、「そんなの大嘘に決まってる!」と、ハナから信用しません(まあ、当然ですわね)。
ところが、後年、大塚先生が漢方に興味を持ち独自の研究をすることになるわけですが、あながち曾祖母の言は嘘ではなかったのではないかと思うようになります。
そのキッカケはある書物に出会ったことでした。
「尾台榕堂」という幕末に活躍した名医がいます。
この人の残した「方伎雑誌」という書の中に自分の医者としての初陣の様子が書かれているのです。「尾台榕堂」は医家出身です。祖父、父、長兄いずれも漢方医でした。
たまたま、急患が出て往診を頼まれました。ところが折り悪く、それぞれが患者を抱え忙しく、往診することが出来ませんでした。そこで祖父がまだ幼い「榕堂」に言いました。「お前が行って診てくるように」と。
そのくだりを大塚先生が現代語に訳して書き残しているので、そのまま紹介しましょう。
“私が十三歳にとき、病家から往診を乞うてきた~中略~祖父の紫峯翁にお前が往って診てこいと命ぜられた。そこで往診して帰ったところ、祖父が、どうっだったと尋ねるので『傷寒で、頭が割れるように痛み、悪寒、発熱し、喘鳴もあり、身体中が痛み、脈は浮数で力がある』と報告したところ、お前はどの薬方を用いるかと訪ね給うたので『麻黄湯ではいかがでしょう』と伺ったところ、祖父は顔に笑みを浮かべて、よくできたと誉めて頂いたので三貼調合して、これを温服してウンと汗を出すがよいと、使いの者を帰した。翌朝また往診したところ、ウンと汗が出、苦しいところはなくなったという。ただ余熱が少しあるから、小柴胡湯に転じ、まもなく全快した。これが私の初陣である”
一家が医家ということを考えても、現実に患者を診立て、処方する、となると門前の小僧云々・・とは次元がまるで違います。この「榕堂」という名医、紛れもなく十三歳にして医者になったわけです。
このことから類推するに、大塚先生の曾祖母もまた、八歳で医者をやったというのは事実なのかもしれないと思ったそうです。
では、名医と言われている人は皆、そうであるか?というとこれがそうでもありません。
かの天才漢方医、吉益東洞、彼は一説によると、四十歳から医者になったと言われております。当時の平均寿命で考えれば、現在なら60歳くらいで医者になったようなものかもしれません。それでいて、現在の日本漢方にもっとも影響を与えている業績を残しているのですから、むしろこちらのほうが驚くべきことでしょう。
人には早熟型と晩成型があるようですが、漢方界にはその両極端があって、面白いものだなぁ、と思う次第です。
話を戻しましょう。
チャングムは少なくとも、当時の男尊女卑の風潮の中で医界の頂点まで上り詰めた人です。
如何に大変なことであったか。現在では想像もできないくらいのものだそうです。
それを可能にし、事実として歴史に残っているわけですから、作者の脚色があるとはいえ、チャングムの能力は抜きん出ていたことに間違いはないようです。
まさに十三歳で患者を診立て、生薬の効能など童謡を歌うかのような流暢さで説明できたものでしょう。
イ・ヨンエさんばりに美しかったかどうかは別にしても、小説に描かれているチャングムの能力はほぼ事実であったと思う次第。というか、小説の描写さえ上回っていた可能性さえあります
世に早熟の天才とはいるものですねぇ。
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