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正露丸のアロマ効果

先日、麻布十番納涼祭りということで、来客を招いて小宴会などを行いました。
ところが来客のお一人が急な腹痛を訴えましてね。
聞くと、ホントに急性的なもので相当ツライらしい。

急性ですからね、じゃ、足でも揉みましょうか、などと悠長なことを言っている場合じゃありません。こういうときのために正露丸があるじゃないですか。
当然、お腹が弱い小生も常備薬として持っているわけです。

薬は飲まないに越したことはありませんが、ゆっくり寝ていられる状況じゃない時に役立ちます。で、正露丸を持ってきて、飲んでみてください、と薦めました。

その方、薬ビンの蓋を開けて、「あ~正露丸の臭い!」と当たり前のことをおっしゃる。
しばらく臭いを嗅いでいて、「正露丸のアロマ効果!」などと訳の分からないことを言っているうちに腹痛が治まってきたらしい。
実際、本当に治まったのです。(結局、薬は飲まなかった)

小生も半世紀生きてきましたが、正露丸の臭いだけで腹痛を治めた経験はありません。
ていうか、そういう発想をしたこともありません。

(ふ~む、正露丸のアロマ効果ねぇ~)
まあ、アロマ理論の理屈としては成り立ちますし、心理学に詳しい方は条件反射とかプラシーボという言葉が真っ先に思い浮かぶでしょう。

説明はいくらでも考えられますが、そういうことをしようとする発想が凄いなぁ、と。
その方、施術家でもアロマテラピストでもない人なんですけど。(アーティスト)

いやはや、不思議な体験で、勉強になりましたね。

足心を開く

実に東洋的な表現です
人によってはオカルト的というかもしれませんけど。

頭蓋-仙骨系は気功用語でいうと「小周天」循環になります。
当然、ここが中枢ですから、この循環の異常は生命維持に関わってくる重大な問題となります。中枢が狂うと、様々な症状となって現れてきますから、頭蓋-仙骨系の意義は大きいことは言うまでもありません。

中枢さえ生きていれば足が萎えて歩けなくなっても、つまり寝たきりになっても、何年か或いは何十年かは生存していられるわけです。

しかし、単に生きているというのと、健康で活動しているのとでは、ある意味生きているレベル若しくは意味が違ってきますね。
ですから、中枢さえ働いていればそれで良い!ということにはならないわけです。

健康で活動していく源泉は足にあることに異論がないでしょう。
その足は「小周天」を超え、「大周天」の要になるわけで、西野皓三氏が「足芯呼吸」を提唱したのは分かるような気がします。
(ソクシンを足心と表記せず、足芯としたのは商標の問題があったのでしょうか?)

さて、白隠に倣い、小生は足心と表記しますが、この足心の位置は足のほぼ真ん中と捉えても良いでしょう。HPに描かれているとおりです。

面白いのは、ヘディ・マザフレ以外の反射区チャートでは、腎臓の位置がかなり足心に近いということです。(ヘデイ・マザフレは湧泉に近い位置に設定しております)

こと腎臓に関する限り、湧泉は腎経ですので、より腎臓と関係が深いものですから、ヘディ・マザフレの反射チャートで全然問題はないと思います。

じゃ、他の反射区チャートは間違っているかというと、足心にかかるかぎり、別の機序が働いて効果があったものと思われますから、これもまた実効性があったことでしょう。

(今は反射区のことを論じているわけではないので、それについては別の機会に譲りたいと思います)

構造的、若しくは物理的に拘束されている状態が応力転位を起こさせて身体に悪影響を及ぼすことは本ブログでも書いてきたところ。

しかしそれとは別の「気」の理論で言っても、この足心が閉じていると、大周天循環が阻害され、これまた重大な悪影響を及ぼします。

頭蓋が閉じているかどうかは、極めて微細な動きを感知しなければいけないので、かなりの経験が必要なのは言うまでもありません。

しかし、足心の場合は、軟部組織であるため、あっさりとシコリを検出することができます。
昔、「なんでこの位置がこんなにシコッている?横行結腸の問題か?」などと??の連続でしたが、ここを足心と捉えれば、疑問が氷解します。

足心の位置は人によって若干ズレるのですが、この近辺が閉じている人が多いわけです。

手技でここを開いてあげると、気の循環が上手くいって、非常に爽快感が出るタイプの人と、逆に気が巡るために、別の阻害部位が俄然クローズアップされるタイプの人がいます。

首のモヤモヤ感を訴える人が多いかも知れませんが、場合によっては腰であったり、肩であったり股関節であったりと様々です。

モヤモヤ感を訴えるタイプの方がむしろ、その人の弱点が分かり施術ポイントが絞れるのでやりやすいと言えばやりやすいのですが、整体を使わない術者にとってはモヤモヤしたままで帰さねばならず、ストレスがたまることになるでしょう。

ですから、足だけで完結するリフレにおいては足心を開かせる手技はやりたくないという人もいるわけです。無理に薦める技法ではありません。

手技の方法論としても難しいもので、最低5秒以上の安定圧が必要です。
しかも、かなりの圧力が必要なので、慣れないと自分の身体を壊す危険性もありますから、強くその方法を薦めるということはなかったわけです。

しかし、最近、足心近辺が閉じ気味の人がやたらと多い。
(だから、訳の分からない変な病気が多くなっているのでしょうけど)

安定持続圧を横向きにかけるという高度な技法を使わずとも足心を開かせる技法はないものか?と模索しておりますが、安定持続圧と全く同じ効果がある方法は考えついておりません。
うつ伏せにして押すと術者自身の負担は軽減されるものの、何故か気の巡りは仰向け時よりもかなり劣ったものになります。

次善の策として、どんな方法でも良いから、足心近辺を解きほぐし、柔らかくすることが必要かと思います。

その前に「足心」というものをまず認識するということが必要なのですが、所謂、科学的香のしない名称であると同時に古典経絡説にも説明されておらず、思い至ることさえ困難だったものと思われます。

なにせ、文献的には江戸中期の白隠禅師が書き残したものにしか、残っていないのですから。(だからといって白隠の造語だとは思いません)

これを独力で発見して施術に応用し、かつ実効性を確かめるなんていうことは無理というものかもしれません。
小生はたまたま足心道のルーツを調べていて発見しただけで、そしてたまたま足の施術が専門だったという僥倖が重なったに過ぎません。

まるで、前世から決められていたかのような宿命的なものを感じたものです。

足心の重要性はこれから益々クローズアップされてくると思いますね。

足首拘束のリリース

「足首拘束のリリース」という動画をユーチューブ上に公開したところ、現在18000件以上のアクセスがあって、この手の動画としてはまあまあのようです。

関連動画として「違う系の拘束」が紹介されているせいなのか、はたまた純粋に施術系として興味があるのか、どっちなのかわかりません。
小生としては後者であることを祈るのみです。

しかし、この動画、演者である小生の緊張が強く、後になってよく観れば、納得できるものではないなぁ、と、思う昨今です。
やり方もちょっと違うしね(映像向きにし過ぎ)

漢字が通用するせいなのか、アクセス解析を見ると中国でよく観られているようです。
今や中国はネット大国ですからね。
あとはアメリカでチョボチョボかな。

動画をアップした瞬間にどこの誰が観ても良いという意思表示になるわけで、どこで観られようと、どう評価されうようと、全然構いません。

映像の良し悪しはおいて置いて、足の拘束除去の重要性についての信念はいささかも揺らぐことはないわけです。

中長期のスパンで考えると、足骨の変位の整復、足首拘束のリリースの必要性は歴然とします(短期スパンでも著効があるときがあるくらいですから)

よそ様の施術についてどうのこうの言う資格はありませんが、背骨ばかりいじってないで、足を何とかしたほうが、いいんじゃないの?という思いは、今回のオリンピックを通じて確信に至りましたね。

人は皆、活動する限り「人生のアスリート」じゃないですか。
人間というのは足に負荷をかけて生きているのですよ。

その足を労わらずして、どこを労わるというのか・・・・

利き手、利き足

小生、走り高跳びは不得意中の不得意。
不得意であるが故にある種の憧れもあり、競技自体はよく観ます。
男子決勝も観ましたし、女子決勝も観ました。

ところで、走り高飛びは走ってきた勢いをそのまま垂直方向に変えねばならないので、踏み切りの瞬間に片足にかかる負担は物凄いものになります。

なんでも体重の10倍の負荷がかかるのだとか。
70キロの体重の人だったら、700キロ!実に一トン近くの負荷が片足だけにかかるわけですよ。

よく故障しないであるレベルを維持していられるものだ、と感心していたら、オリンピックで2連覇した選手はまだ誰もいない、ということを知って納得。

一流のアスリートは水面下では「故障との戦い」という話をよく聞きますが、走り高跳びも相当な自己管理が要求される種目ではありますね。

さっき左足で跳んだので、今度は右足で跳ぼう、なんて出来ませんから。
どうしても利き足だけに負担がかかります。

施術も利き手だけに負担がかかるのはよろしくないわけで、適度に左右を使い分けます。
それでも、全体を通してみれば、利き手を使う場面が多くて、均等負担という訳にはいきません。

下手に逆手を使うと、体勢、体のバランスまで逆にしなければいけませんので、そのバランスがとれず、かえって身体に負担をかけることにもなります。
ここら辺が初心者の悩むところでしょう。

普通、右利きの人の利き足は左足になります。(左利きは逆)
走り高跳びでも、走り幅跳びでも右利きの人は左足で踏み切るはず。
ところが絶対的なものかというとそうでもなく、右利きでも右足が利き足になっている人もいるのです。

ホントは左利きで、幼少時から右利きに矯正された人に多いのですが、そういうケースばかりでもないことが分かって、???です。

小生はノーマルタイプで、右利きの左足重心です
ですから、右利きの右足重心の人に教える場合は、教えた体勢そのものに微妙な違和感を感じるらしく、不全感を感じる方もいるのです。

左利きで右足重心の人なら、完全に逆になりますので、まだ良いのですが、左利きで左足重心だと、これは史上最強に教えづらいものです(例としてはもっとも少ないのですが)

ことほどさように個性というものがあって、一律にはフォームを決められないという現実があるわけ。

マスプロ的な教え方というのは、個々人が持つ身体の個性というのを無視しますから、中にはどうしても合わず、断念する人もいるのではないかと思いますね。

単に利き手の違いだけじゃなく、利き足の違いまで考慮に入れないと、中々上手くいかないこともあって、教えるということも実は難しい作業なのですよ。

歯は大事

動物の寿命というのは歯の寿命とほぼ等しいものです。
勿論、入れ替わり立ち代り歯が生えてくる動物もいますが、そういうのは例外に致しまして。

人間の場合はご存知のとおり、永久歯が生えてからは、もう二度と生えることはありません。したがって、この永久歯がダメになれば、自前の歯がなくなることになり、食べ物を食べるのにも苦労することになるわけです。

しかし、歯科学の進歩というのは有難いものです。
ブリッチをかけたり、入れ歯を作ったり、最近ではインプラントという方法まであって、歯の機能を補う方法が発達してきました。
小生も、何箇所かブリッチをかけて、その恩恵に浴している一人です。

ところが、所謂、歯槽膿漏、歯周病が進みますと、歯がグラグラになって、処置をするにも対処できなくなるわけです。

そして、最終的には総入れ歯ということになるのですが、そうなれば不全感を感じるらしいですし、その途中経過でも、硬いものが噛めず、食べ物の歯ごたえを味わうことができません。

グルメなら致命的な悩みになるでしょう。

歯臓器説を唱えたのは日本の歯医者さんだったと思いますが、確かに歯が役に立たなくなると、(歯は臓器だなぁ)とシミジミ実感するわけです。

胃を全摘するとか、腎臓や脾臓を摘出するとなると、相当な覚悟とそれなりの理由が必要ですが、歯を抜くということに関しての深刻さはそれに比べ、あまりないのではないでしょうか。

しかし、歯がリッパな臓器の一つとして考えれば、歯を抜くという行為は内臓摘出に匹敵するような問題だと思うわけ。

食べるものが制限されるだけじゃなく、滑舌が悪くなりますし、顎の骨が痩せて老人顔に早くからなりますし、何よりも頭蓋縫合が微妙に狂ってきます。

頭蓋に問題が起これば、これはもう何が起きても不思議ではありませんから、様々な病気の遠因になっているのかもしれません。

三水会のときにYさんが、ある選手が足の故障に耐え切れず、途中棄権をした件に関して一言述べておりました(オリンピックの話ですよ)

「歯列矯正のせいだと思うけど・・・」
ふ~む、言われてみれば、その選手は歯列矯正をしていたような・・・・

記憶を辿っていくと、そういえば、そういえば、総入れ歯!(オヤジギャグで失礼)
なるほど、そうだ!歯列矯正のせいだ!と思いましたねぇ。

普通、応力転位は足から上へ行くことが多いのですが、顎関節の問題から下へ影響を及ぼすことも少なくありません。

誤解しないで頂きたいのは「歯列矯正」が悪いと言っているのではありません。
一般人が日常生活を送る分に、大きな問題となることはあまりないでしょう。
(小さな問題は結構あるかもしれませんが)

しかし、アスリートの場合は限界まで肉体を酷使します。
微妙なバランスが崩れ、もともと持っていた歪みが増幅した可能性は大いにあり得ることです。

我々の考え方では、現役のアスリートが歯列矯正するなど、狂気の沙汰としか思えないのですが、まだまだクラニアル系の考え方が認知されているとは言えないのが現状です。

先日、久しぶりのクライアントさんが来て、懐かしかったのですが、その後、その人に起こったことを聞いてビックリ仰天しました。

ホワイトニングという歯を白くする処置があるのだそうです。
その方はそれをされたらしい。
すると、どうも歯に微細な割れがあったようで、ホワイトニングで使う漂白剤が歯茎の中に入ってしましって、炎症が起きたとのこと。

そしてそれが何ヶ月も続き、今現在もそのことで苦しんでいるのだそう。
訴訟問題になるかもしれない、とおっしゃっておりました。

その話をやはり三水会のメンバーのIさんにしたところ、歯を漂白して白くする技術はアメリカ発祥のものらしいのですが、最初にその処置を受けた一群の人々は現在、歯がボロボロになり大変なことになっているとの情報を頂きました。

歯は専門じゃありませんが、クライアントさんの話を聞いておりましたから、さもありなん!だなぁ、と思いましたね。

美しくなるのはある種の代償が必要なようです。

まあ、小生は審美歯科とは縁がありませんが、歯自体の問題が深刻化しております。
何事も遅すぎることはない、と言いますから、ここ一ヶ月、丹念なブラッシングを心がけでおります。やはり調子が良いようです。
(しまったなぁ、こんなんだったら、もっと若い頃からこういう習慣をつけておけばよかった)と思うのですが、いつもこんな調子です。

来世はキット、まなびを生かせるのじゃないかと、期待するしかありません。

立方骨再び

6月17日に立方骨というお題でブログアップしたところ、一部の人を除いてほとんど反響がありませんでした。

結構、大事なことを書いたつもりなのですが、残念。
そもそも、立方骨って何?という人たちがいるかも。

まあそれにもメゲズ続きを書こうと思います。
反射区でいうと「外肋骨」の部位がプクッと膨れている人がいると思いますが、その部分がかなり立方骨に近い。
従来は腰に問題がある人に多いとされていました。
勿論、その確率は高く、それを肯定するにヤブサカではないのですが、反射区機序からそうなっているのではなく、立方骨変位からくる腰椎の異常と捉えることもできるのです。

ヒトは足裏で均等に体重を受け止めているのではありません。
踵骨と第一中足骨でほぼ五分の四を受け持っております。
ですから、やけに第一中足骨が太く、他の中足骨に比べれば体積率でいうと5倍くらいになるのではないでしょうか。

中足骨骨折はほとんど第一中足骨以外で起きるのも肯ける話ではありますね。

前回も書きましたが、立方骨は第四、第五中足骨、二本の受け皿になっていて、楔状骨がそれぞれ一本ずつの中足骨を受け止めているのに比べ異例の構造になっております。

それに耐えうる構造をしているのですから、問題がないと言えば問題がありません。
しかし、微妙に身体が歪み、立位、或いは歩行時の負荷のかかり方に個性が出てきます。

例えば、小生は、靴の外べりが激しく、足裏の外側に重心がかかっているのが分かります。そうかと思うと、内べりが激しい人もいます(女性に多い)
このように靴をみれば、均等ではないということが分かるのではないでしょうか。

まず、このように一方に偏った靴の減り方をしている人はその構造上、立方骨変位があると思って間違いないでしょう。負担がかかり過ぎか、かからなさ過ぎです。
特に顕著な偏りがなくとも、述べたように「外肋骨」の反射区が膨れている人は立方骨変位そのものを表していると思っても間違いではありません。

この骨の変位は多方面に影響を及ぼしてしまいますから、整復しておくに越したことはないと思います。変位整復の方法は様々あって、これが一番だ!と断言できるのものではありません

ただ、施術の出自から言って、カイロ、オステのようなハードな方法はとらず、動画にアップしてあるような「フネフネ」で徐々に整復していく方法を好みます。
この方法は簡単そうで難しいものですが、まあ、慣れです。

あと、欧州のオステオパスがアクティベーターで矯正をかけているのを見たことがあります。カイロとは随分違った使い方をするものだなぁ、と思ったものですが、受療者にも施術者にも負担がかからない方法ですので、今はこの方法も行います。

いずれにしても単なるリフレでは整復するに難しい骨かもしれません。
単純な腰痛ならこの立方骨の整復だけで止むことがありますので、同じ足を操作するのですから、挑戦してみて損はないでしょう。

アドレナリン

アドレナリンは別名、闘争or逃走ホルモンと言われているのはご承知かと思います。
敵と戦うとき、また全力で逃げるとき、普通の身体の状態では対応できません。

そこで、アドレナリンというホルモンが分泌され、最高のパフォーマンスが出来るよう、設計されているわけです。

つまり、普段、出ないような力をそういう場面に出くわしたとき、出せるように(神様が)作ったわけです。

競技の本番でもこのアドレナリンは出まくります。一種の闘争ですから、当然です。
そして、練習では決して出ないような、記録などが出て、本人さえ驚き大喜びということになるわけです。

ところが、逆にパフォーマンスが低下して、練習時の実力さえ発揮できない場合もあります。特に日本の選手は本番に弱いと定評があったのはご存知かと思います。

小生の拙い経験をお話したいと思います。
小学生の頃はとにかく本番に強い体質でした。
例えば、体力測定で様々な種目が課せられます。
ソフトボール投げ、走り幅跳び、連続逆上がり・・・等々です。
体育の時間ではこれらの練習があったり、また放課後自主的に練習したりするのですが、思うように記録が伸びません。

ところが、本番。
練習時には決して出ない記録が出てビックリ仰天でした。
例えば、走り幅跳びなどは練習時の記録よりも50センチは伸びたでしょうか。
(4m30cm、小学生としては、まあまあでしょ)
ソフトボール投げは10mも伸びました。(50mだったかな)
総合では2位でしたが、いくつかの種目では新記録もありました。
2位(銀メダル)ではありましたが、自分にとって最高のパフォーマンスが出来たということで大変満足したことを覚えております。

ところが、中学生の頃から全く逆の本番に弱い体質になってしまいました。
あらゆるものにおいてそうなってしまったのです。
今考えると、思春期特有の自我意識の拡大なのでしょうか、余計なことを考えるようになったんじゃないかと思うわけです。
(失敗したらどうしよう)とか、(いいところ見せてやれ)とか、とにかく雑念が入ってくるようになったのです。
身体は硬直し、ガチガチです

小学生の頃は無心、無邪気で、心地良い緊張感だったものが、どうも雑念によって緊張が強すぎる体質に変わったようなのです。

アドレナリンのコントロールが上手くできないわけです。より本能的である小学生のときの方が、身体に備わったシステムを知らないうちに上手く利用していたことになります。

思春期以降はアドレナリンがかえって身体の緊張を生み過ぎて、パフォーマンスの低下を呼び、メタメタ、ダメダメです。

このように下手に知恵がある人間にとってアドレナリンは両刃の剣ともなり得るわけで、これをコントロールするのは容易ではありません。

100m短距離走でウサイン・ボルト選手が9秒69というトンデモナイ世界記録で優勝しました。こんな記録は練習では絶対に出ない記録でしょう。

かと思うと、メダルを期待されていた日本選手が一回戦で敗退したりもします。
(個人的には周囲から期待され、それを果たすことができず敗退する選手の悔しさ、情けなさは痛いほど共感してしまいます。人生に負けたわけじゃないのでガンバレ!と言いたい)

気持ちを制御するということはアドレナリンを味方につけることに他ならず、敵は相手じゃなく自分だという格言は真実です。

一流選手達が座禅を組んだり瞑想したり、イメージ法を取り入れたりするのはそのことを分かりすぎるくらい分かっているからに他なりません。

それでも、本番で上手くコントロールできない選手も出てくるのですから、とても難しい作業だということが分かるのです。

脱力

ある評論家が日本-キューバ初戦で投げたダルビッシュ選手の投球を見て書いておりました。

「ダルのシーズン中の投球は力の70%くらいしか使わず、しかももっとゆったりとした間合いで投げる。にも関わらず、オリンピックでは力が入いり過ぎ、本来のピッチングとはかけ離れていた・・・要旨」

一流選手でさえ、大舞台で力まずパフォーマンスするのは難しいのですから、普通人がやれば惨憺たる結果になることでしょう。

力まない、脱力する重要性というのはHPでも、このブログでもサンザ書いておりますが、あらためてオリンピックを観ていて思いますねぇ。北島選手なんか、あんなにゆっくり、ゆったり泳いでいるのにダントツで早いわけでしょ。

脱力するというのと気を抜くというのではまるで違います。
気を抜かず、身体の力を抜く。言葉で言えば簡単ですが、実際は難しいものです。

施術も身体動作ですからパフォーマンスであることには変りがありません。

「功名心があれば失敗する」と増永先生の著作のどこかに書いてありましたが、緊張だけではなく、どこかに(良いところを見せてやろう!)という気持ちがあると、知らないうちに力が入って上手く操作できない、結果、良い施術ができない、即ち失敗、ということなんでしょうが、そういうことを知っていても、何度失敗したことか・・・・

2度同じ失敗をすればバカだ、という伝でいけば、小生は救いようのない大バカということになります。自己弁護するわけじゃないですが、それくらい微妙に難しいものです。身体動作というのは・・・

身体の制御とは実は気持ちの制御に他ならず、いかに落ち着き、焦らず、瞬間、瞬間に意識を固定していけるかどうか、という問題に帰着します。

そういう意味では型の反復というのは重要な練習要素ではないかと思いますね。
何故なら、(次に何をやるんだったっけ?)などと考えるようでは、それ自体が雑念だからです。技法自体は無意識にでも出来なければ、気持ちをコントロールするどころの騒ぎじゃありません。

その人の固有の証にあわせどう組み合わせていくか、ということも考えねばならぬのに、技法自体のやり方を考えているようではお話にならないわけです。

だからこそ、基本を何度も何度も反復して、身体に染み込ませるようにして覚えていくことの重要性が分野を問わず、昔から言われ続けてきたのでしょう。

小生も高いレベルではありませんでしたが、一応競技者であったこともありました。
(卓球なのですが・・・ちょっと恥ずかしい)
このときの経験で思ったことは素振りの重要性です。
これは野球でもテニスでも、ゴルフでも同じではないでしょうか。
素振りとはイメージトレーニングでもあり、基本動作を身体に叩き込む小脳訓練でもあります(真面目にやりますと地味ながら実に役立つものです)。

社会に出たとき、もう競技としてやるのは遠慮したい気分でしたから、運動不足解消に硬式テニスを選びました。
昔のテニスは卓球とはまるで違うものですが、元卓球選手のビヨン・ボルグが活躍して以来、打球インパクトが卓球とエラク似てきたのも選んだ理由の一つです。

そこで、小生、コートデビューする前に徹底して素振りを行いました。
フォアハンド&両手バックハンドを合わせてシャドーテニス風に。
(夜中に家の前で行うのですから、近所の人はどう思ったのか、今考えると怖い)

いよいよコートデビューとなったわけですが、最初はラケット面の角度が合わず、ホームラン性の当たりや、ネットに引っ掛ける当たりの連発でしたが、タイミングは完璧にあっていましたので気にせず、角度の調整だけを心がけて10分くらいやりましたでしょうか。
すると、面白いくらい入るようになりました。
何年もやってきた人もよりも上手いわけです。
陰の努力(素振り)の威力以外の何物でもありません。

施術を生業にしたとき、このときの経験から、徹底したイメージトレーニングを行いました。施術は球を打つという動作はありませんから、素振りという概念はありませんが、それでも、誰もいない夜中、誰もいないベッドで、そこにあたかもクライアントがいるようにイメージして、操作していくわけです。

これは第三者が見れば異様な光景でしょうね。
実はこの訓練は今でも行っています。

小生のことを器用だという向きもありますが、決してそんなことはありません。
施術家としては致命的とも言える右手の障害も持っています。
むしろ不器用なほうです(字は下手くそですし、絵は描けませんし、折り紙も上手く折れませんし)

しかし、基本動作を徹底してやれば、それなりのレベルにはいくということを経験で知っています。だから、新しい技法のアイディアが浮かんだとき、夜中にシャドー施術を徹底して行い、身体に覚えこませるわけです。

勿論、イメージと実践ではギャップがあり過ぎることもあります。それはそれで、新たなことが分かったわけですから、微調整してまたシャドー施術に励みます。

こういうこと(微調整)を繰り返し、繰り返し行っていくと、技法を自分化できるわけですが、実はここから本当の修行で、それをどういう証の人にどのように適応させていくか、ということが難問中の難問です。

そして、さらに気持ちのコントロールがあって脱力を心がけなきゃいけないのですから、どのような職業であっても、オリンピックに出ずとも、プロというのは大変なのです。

歪みの臨界点

(一)

野口みずきさんがハムスト筋断裂によって五輪参加を断念したそうな。
本人の悔しさはいかばかりか。

ニュースでの情報しか知りえませんが、施術家業の小生としては少々、気になることが報道されていました。

野口さんは身長の低さをカバーするため、ストライド走法という独特な走り方をするそう。歩幅が自分の身長分(150センチ)もあって、これはマラソンの世界では異例だとか。

まあ、その是非については小生、走りのプロじゃありませんので論評する資格はありません。ところが、以下のような解釈がなされていたのが気になったのです。

「野口は腕を振るときに左にくらべ右腕を大きく振る癖がある。この右腕の振りが大きいので、それをカバーするため、左足に負担がかかったものだろう」

そこまで分かっているのなら、何故、コーチ陣はそれを矯正しなかったのでしょう。

現代マラソンはスピードが要求されるため、肉体的限界スレスレなほど過酷な競技になっています。矯正しなければ、いかに鍛え上げられていても破綻するのは目に見えているではないですか。

こんなことは素人の小生でさえ、分かりますのに。
解釈どおりだとすれば、そういう感想になります。

しかし、解釈そのものが逆のような気もします。
右腕の振りが大きいから、左足に負担が来たのではなく、左足になんらかの異常があって、それをカバーするために右腕の振りでバランスをとっていたと。

普通、応力転位は足から来ますので、こちらの解釈のほうがより整体的ではあります。
この場合の異常とは病的な異常ではなく、若干の歪みのことです。

おそらく、日常生活では故障などしない程度のものでしょう。しかし、述べたように、肉体的限界に挑むアスリートは違います。過酷なトレーニングで歪みの臨界点に達してしまうに違いありません。

ハムスト筋にきたということは左膝が若干、外か内に曲がっていたものと思われます。
(膝を屈曲させる筋群のため)

多分のその原因は足首でしょう(もしくは立方骨かもしれません)

診てないので断言できませんが、可能性としては高いような気がしますね。
他に考えられるとすれば、仙骨、骨盤から股関節へきて脚長差があったか(左足が短い)。

まあ、足からきて、右腕の振りのシグナルへ・・・という可能性が高いことだけは確かです。
こういう類のことは正統派トレーナーからは異端視されます。
筋解剖的な知識だけでは限界があるにも関わらず・・・

フルフォード博士が言う「三関節原理」は厳として存在しますのに。
その応力転位が筋筋膜系への負担となって現れるなど、初歩の初歩の考え方です。

五十肩の原因は対角線上の股関節の問題である、とは構造医学の考え方ですが、別に構造医学を持ち出すまでもなく、下半身の歪みの応力は必ず、上半身へと移行します。

それが走るという行為の中で、腕の振りに現れたっておかしくはないわけです。
コーチ陣は専門家じゃないので、分からないかもしれません。

しかし、トレーナーならこのことを知っておくべきでしょう。
大枚で雇われているのですから。
好くなくともボランティアではないはず。

どうしてくれる!一人の有能なアスリートを潰してしまったではないですか!
誰に怒りをブツケテいいか分かんないので、とりあえずトレーナーに怒りをぶつけてみました。

もし、以前よりそれを指摘して注意を促していたのであればゴメンナサイ。

(二)

「偉そうなことを言いやがって!」
じゃ、お前がトレーナーだったら今回の件は防げたのか?!
という反論はあるでしょう。

事が起きてからなんだかんだと論評するのは、まあ誰でも言えるわけだ。

さてさて、この設問に対しては当然、小生なりに考えます。
ホントにトレーナーだったら、選手をつききりで管理することでメシを食っているわけですから、そりゃ、真剣に臨むでしょう。

まず、走り方は今素人同然の小生が見ても右腕の振りが大きいのが分かります。
(これは誰でも気付きますよ)
そうすると、当然、左足に負担がかかっているのが分かりますから、左足のケアーを中心にすると思います。

ただ、毎日のようにトレーニングに励むので、歪みそのものを治すことはできないでしょうね。
しかし、その臨界点に達するのだけは避けるべく管理するのは可能でしょう。

肉体的臨界点というのは竹がしなってしなりつくして、さいごポキッと折れてしまうのに似ていますから、その一点を超えないないようにすれば良いわけです。
それくらいはケアできますよ。方法はいくらでもある。

その方法論を選ぶのは個人的な特性が大きく関係しますから、本人に聞きながら相談して決めます。また、自覚症状も出ているはずですので、その症状にもよく注意を払います。

過度なストレッチはトレーニングの中で行われているはず、ケアーの中では行わないでしょうね。まあ、ストレッチに限らず、過激な矯正技はしないに違いありません。
肉体をイジメ抜いているわけですからね。
イジメ抜いた肉体をいかに緩和するか、という方向性になろうかと思います。

足裏は当然やります。
アスリートにとっては命みたなものです。特にマラソンランナーは足底内在筋にかかる負担は半端じゃないでしょう。内在筋の変位は足骨、特に立方骨を危ない状態にさせます。
いずれにしてしても、足は脚も含め全部やります。

殿部からハムストへの整復は当然のこととして、腸腰筋も欠かせないでしょう。
短距離走者ほどではないにしても、ランナーの特性として、この筋筋膜系の疲労はピークに達するに違いありません。

またこの筋疲労は腎臓と膀胱の位置をズラしてしまいます。
(まさに今回は腎経と膀胱経に出たわけですが)
ということは腹証も必要ということになるでしょう。

アスリートに按腹?なんてお思いでしょうが、トンデモナイ!
整形外科的疾患ばかりに目が行きますが、基本的にスポーツ外傷は激突でもない限り、過激な運動による内臓的位置異常によって起きることシバシバで、ここに目を向けないから治らないんですね。

これは経絡的な発想ですが、オステオパシーでも内臓マニピュレーションという高度な技法が考え出され、外傷治療に威力を発揮しているわけで、なにも古臭い迷信的な方法論ではありません。

按腹は臨界点を超えないようにする優れた方法だと思います。

というわけで、無事、大会に出場させ、完走させるのは可能ですよ。
そう!小生なら今回の事件は起こさせなかったな。

しかし、そもそも、五輪の直前に高地トレーニングをする必要があったのかな?
オーバーワークっていう言葉を知らないはずはないのですが・・・・

(三)

臨界点を超えてしまうことはなにもアスリートだけじゃなくて一般の人にも起こり得るわけです。

普通は過激に肉体を酷使するわけでもありませんから、かなりのスパンがあるでしょうけどね。それでも、加齢や、いくつかの疲労要素が重なったり、強いストレスなどで臨界を超え、酷い症状に悩まされることになります。

この臨界点を超えないうちに来院して頂ければ、非常にありがたいのですが、実際問題、ケアーのために来られるという方は少数派で、症状が出てから来るというパターンが多いのではないでしょうか。

原子炉でも臨界点を超えればもはや制御不能ということにもなるのですが、人間の場合はフェイル・セーフ機能が何重にもあって、サドンデスするのは稀です(現在は増えているらしいのですが)

むしろ、自己修復システムと病のせめぎあいの中で慢性化していくことのほうが多いものです。

自己修復能力の味方としての我々の立場があるわけですが、放っておけば確実に病勢に負けるという戦況悪化の中で、味方の軍勢を投入しても、現状維持しかできなくてもどかしい思いをする局面もあります。

或いはほとんど勝ち戦の中で、味方することによって、一気にケリをつけられることもあって、こういう場合は感謝もされ、自尊心も満たされ、やってて良かったということにもなります。
(有頂天になる施術者もいるでしょうけど)

人の身体には無数の局面があります。
古代ローマ史を読むと、繁栄の中に没落の種が蒔かれたという趣旨のことが書かれています。繁栄と破滅は表裏一体、道(タオ)で言えば陰陽なのでしょうが、当然、人間の身体にもあてはまり、元気であるが故に無理をして、歪みを蓄積させて破滅へ向かっている局面もあると思います。

一つの病を持っているが故に節制の勤め、結果として人より長生きした、ということもあるので無病息災ではなく、一病息災という言葉も生まれたのでしょう。

何が幸いするか分からないのが人生ですが、少なくとも肉体的には臨界に達する前に何らかのシグナルがあるはずですから、それを敏感に感じ取る感性というものが必要だと思いますね。

感じ取る感性さえあれば、一病息災である必要もなく、適切な処置が出来るはずです。その適切な処置の選択肢の一つとしてリフレパシーを選んでくれればなぁ、と。
まあ、そういう思いもあってやっているわけです。

名人芸

どの世界にも名人と言われる人たちがいるものです。
将棋などはそのものズバリ「名人」という位がありますものね。

そのほか、落語の世界でも一般的に使いますし、あとは職人系で多く使われるのではないでしょうか。

手技施術の世界でも、古くから名人と言われる人達がいました。
但し、漢方や鍼灸とは違って文献の中に名前が残っているわけではありません。
多くは無名の名人達(矛盾した言い方ですが)の施術が口伝のようにして伝わっています。

その名残みたいなものがたまに小説などに出てきて興味深く読んだりもします。

最近では司馬遼太郎の「巧名が辻」でしたか、山之内一豊の側女が彼の身体を按摩したときにツボ勘が良いと誉められるシーンがありました。素人とは思えないと。
しっかりズンと響くというような意味のことも書いてありましたっけ。

按摩が江戸時代にマッサージ化する前は指圧が按摩だったわけですが、これら按摩の名人芸というのは、手の動かし方や技法的なものではなくて、あくまでもツボの底、芯に響いてくるような受ける側の体感によって評価していたようです。

もともとテンション民族である日本人は、昔から頑固なコリを持つ者が多かったのでしょう。よく響かせてそして効くということが名人の名人たる所以ではあったようです。

誰から習ったかというと、おそらく習わなかったのだと思います。
天性でできる者だけが名人だった、というところでしょうか。

ですから、古方按摩の名人芸を再現するには、そのノウハウなど残っていませんから、現代では難しいでしょうね。

ただし、ヒントはありますね。響きというヒントが。
響き=刺激によって関連快痛を伴う様。現代風に言えばこんな言い方にもなるでしょうか。

多少の手がかりから、現代風にアレンジして表現すると、俄然現実味を帯びてきます。
これは西洋ではトリガーポイントとも言うわけですし。

そう考えると、古方按摩の名人芸を再現するのはそれほどの難問でもなくなります。
証にもよりますが、響きが起きやすいスジというのは現在では大体解っていますから、そこを注意深くやれば良い、ということになりますわね。

あと、やり方も問題にはなるでしょう。
同じ部位を同じ強さで同じ角度で施術されても、どうしたわけか、感じ方が違うこと度々ですから。

これは中々説明できないものかもしれません。
親和力が働くかどうか、ということになるのですが、施術者自身の気持ちの問題も絡んできて、マニュアル化できない類のものです。
要するに「あわてず、あせらず、ゆっくりやれ!」ということではあるのですけど。

「急いては事を仕損ずる」-今では滅多に聞くことがなくなった諺です。
それどころか、スピード感を持たねば生き残れない時代だとか盛んにマスコミ等に流されていますわね。まあ、確かに経営はそうなのかもしれませんが、少なくとも癒し技術の分野ではスピード感を持ちすぎると急(せ)くことにもなりかねません。

名人芸というのはある種の余裕から生まれてくるのかもしれません。

組み合わせの妙

(一)

日常、我々が読み、書き、喋る「言葉」をつなげると文章になります。
その文章を紡いでいくと一つの論述にもなり、物語にもなるわけで、血湧き肉踊る小説にも人生観を変えるほどの論文さえも誕生するわけです。

結局、如何に複雑な物語であろうと、複雑な思考であろうと、平凡な「言葉」というものの組み合わせによって成り立っていることが分かるのではないでしょうか。

音楽だって同じでしょう。
どんな名曲であっても還元すれば一つ一つの音符が組み合わさっているに過ぎません。

整体も同じなのです。
平凡な技の組み合わせが実は大変に効果のある整体になったりもするわけで、逆に組み合わせによっては全然効かない整体になったりもします。

平凡であっても、一つ一つの技の精度を上げ、どう組み合わせるかが大事なのであって、個々の技法についての評価はできません。

増永師の基本施術体系を観ていると、「指圧」とはいうものの、単に押圧だけで構成されているわけではありません。ある時は経絡伸展(ストレッチ)、ある時は他律的運動法が適度に配置されております。

中には難易度の高い技術もありますが、それのみで施術を行っているわけではないのです。

技法は手段であり、目的ではない、と何度も述べておりますが、手段を豊富にしておくことも勿論重要です。

しかし、もっと重要なことは覚えた技をどう組み合わせていくか、ということではないだろうかと思うのです。

自分の方向性に悩む施術家のたまごさん達が多くいると聞きます。
悩みなきところに大成はありませんから、それ自体は大いに結構だと思います。
しかし、同じところで悩んでいても仕方ありません。

ある時点からその悩む方向性が変わっていかねばならないのです。
最終的には「組み合わせ」を如何にするか、ということになるのですが、それはとりもなおさず、個々の文章の出来を気にしている段階から全体の物語の出来を気にするのに似て、進化と言えば進化であり進歩といえば進歩でしょう。

仮に基本パターンが決まっていたとしても、その中で個々の愁訴によって、施術の構成が変わってくるはずです。

そのためには愁訴に至る原因の推測を為さねばなりません。
その推測が施術中に変わってくるかもしれませんが、まあそれでも良いのです。そのときに対応を変えていってもなんら不都合はないのです。

機に臨み変に応ず-臨機応変という言葉はこういうときのためにあるのですから。

(二)

よく平易な言葉で語るのが演説の名手である、と聞きます。
平易な単語で言いたいことを書くことができれば名文家とも言われます。

また漢方家も200種類を超える薬方を駆使し、処方するのはまだ名医の域に達しておらず、本当の名医と言われる人たちはどこでも手に入る平凡な30数種類の薬方で対応することができる、とも言われております。

まあ、漢方薬は専門外ですから、事の真偽は分かりません。

整体については専門ですので、断言できますが、最終的には30種類の技もあればほとんど対応できるものと思います。

たまにスタッフK女史に施術をすることがありますが、よく彼女から言われるのは「また、施術の仕方が変わりましたね、なんか複雑になってるみたい」というようなことです。

確かに系統の違う技法が入ってくることもあるでしょうが、大半は違います。
単に基本形を応用しているに過ぎません。ある基本技とある基本技を組み合わせて使うことが“新しい技”に感じるのでしょう。

組み合わせは増えていますが、技法自体はむしろ減少傾向にあるのです。
一番技が多かった時期は10年以上前でしょうか。

マッサージ的テクニックだけでも何十種類もありました。
これを使い分けていたのですから、今考えれば本質を掴んでいなかった証拠です。

多彩な技を使い分けると世にいうゴットハンド、カリスマとか言われるのでしょうが、それは全く意味のない言葉であって、そんな暇があったら、押圧一つの真髄でも掴むほうが余程意義のあることです。

小生に師匠がいれば一喝されて早い時期に気がついたのでしょうが、独学は非効率的です。気がつくまで物凄い年月がかかってしまいました。

経験を積むにつれて、技法は単純化し、純化していきますが、その代わり「組み合わせの妙」というものに気がついてきます。

(なるほど、ここにアプローチしたいときは、あの技法をちょっと変形すれば良いのか・・・とか、あれとこれを組み合わせると良いに違いない・・とか)

教えられたものじゃなく、自分の頭を使って考えたものというのは忘れづらいものです。
技法を“自分化”する一番の早道でしょうね。

ただ、基本形はやはり教わらなくてはいけない。
写真で見ても、ビデオで観てもコツが分からないですし、間違ったやり方になってしまいます。これも自分自身で気がつくまでおそろしく時間がかかるものです。

特に写真はダメです。動きが連続していませんので、見当違いの技法になってしまいます。

まだビデオ系のように動きがあるほうが掴みやすいとは思います。が、生に勝るものはないでしょう。

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