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鬼手仏心

鬼手仏心(きしゅぶっしん)。

さる高名な外科医の座右の銘として有名になった言葉です。

 外科医は麻酔をかけるとはいえ、生身の身体をメスで切り裂きます。行為だけを見ると、鬼か悪魔のようですね。しかし、そこには『なんとしても患者の命を救うんだ!なんとしても社会復帰させるんだ!という言わば、仏のような慈悲の心があるはず。

 手自体は鬼のような行為をしてはいても、心は仏のような慈悲に満ちていなければならない!という外科医の自戒を込めた言葉として小生は理解しております。

 最初に足揉みが流行った頃、この言葉が転用されてよく使われておりました。当時の足揉みはとにかく痛いわけですから、施術者は鬼のように見える。しかし、早く治してあげたい、という仏心から発しているならば、それが許されるのだ、と。

 足揉みに限らず、日本の手技一般にも同じような時期がありました。「指圧は痛いが効く」という風評からやがて「痛い程効く」「痛くなきゃ効かない・・・・」と段々拡大解釈されていきました。この拡大解釈に貢献した言葉がこの「鬼手仏心」。

 増永先生は職員同士が施術をしあう臨床研究という時間の中で、自分の身体で痛い思いをさせてみて「いくらなんでも痛いのには限度というものがあるということが分かるでしょう」と職員を諭したと言います。
「痛いが効く」のではなく「痛くても効く」のだから「痛くなくても効く」のは当然なのだ、という内心の思いがあったらしく、先生自身の施術は余程過敏でなければ痛くなかったと言います。

 しかし、心地よいレベルの施術で効果を生むためには技術が要ります。痛くさせて効果を生むのは素人でも出来ます。心地よさを与えるだけなら素人でも出来ます。

 この効果と心地よさ両方を与えることが出来て初めて「技術」と呼べるわけで、当時の足揉みはとても「技術」などと呼べるものではなく、「鬼手仏心」を隠れ蓑にした素人集団ではありました。中には痛がっている様子をみて喜んでいる施術者もいたわけですから、これでは「鬼手鬼心」です。

 当時、小生も素人の一人ですから、鬼手仏心とばかりに生理的に痛い施術をガンガンやっておりました。

 しかし本質的にサドっ気があるわけではなく、疑問を感じていくわけですが、ここら辺はブログにも何度か書いているので省略します。
 言ってみれば、技術に目覚めた、というところでしょうか。

 ともあれ、一つの格言はいかようにも都合の良いように解釈することができます。「鬼手仏心」は外科医にこそ必要な言葉だと思いますが、手技法においては誤解させる格言ともなりかねません。

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