原始感覚
原始感覚というのは、本能的な部分、あるいは植物的な機能を司る部分が全面に出る感覚のことです。
情動の大脳辺縁系、生命維持機能の脳幹部。パーツでいうとここらへんの働きのことでしょう。
自然療法の中に脳幹至上主義というのがあります。大脳は間違いを犯すが、脳幹は間違いを犯さないパーフェクトな存在であるという考え方です。
生命維持機能にバグがあれば、たちどころに死に至るわけですから、この考え方はあながち間違いではありません。
何億年もかけて完成されたバグのないソフトが脳幹部に組み込まれているのですから、この脳幹の持つ能力、つまり治癒システムを如何に引き出すかが、施術のメインテーマであるとします。
その答えの一つがカイロでいう軸椎(第二頚椎)の歪みを正すというオールインワン思想になるわけ。
つまり脳幹部が持つ治癒力の発動が妨げられている最大の原因は軸椎の歪みであると断定した理論なんですね。
ですから、病の種類を問わず、愁訴の種類を問わず、すべて軸椎の矯正を行うという文字通りのオールインワン手技です。
根底には脳幹の本来の働きを蘇らすという思想があるのです。思想なくして技法はないという典型でしょう。
そしてこれはこれで一定の効果があるんです、面白いことに。
効果があるから今も続いているのでしょうけど。
でも私は立場がちょっと違うので、そこまでは信じ込めないですね。
脳幹部のもつ完璧な生命維持ソフトは認めるにしても、その発動が軸椎の矯正のみによって行われるとは思えないわけです。
(要素としては大きいと思いますよ、だからボクも軸椎の矯正はするんですけどね)
オールインワン手技を素直に信じられないのは経絡思想を学んだせいでしょうね。
ご存知のように経絡はあらゆる身体の器官を関連付けています(心も)。
間脳や脳下垂体は腎経とともに心経の支配が強く、自律神経のバランスは膀胱経です。また脾経はコメカミからダイレクトに脳髄に入り込んでいて、摂食中枢のみならず、基本的な欲望に関与しています。
ですから、ボクはかつて「経絡」とは「治癒システム」の別名だと言ったわけで、あながち間違っているとは思いません。
そして、この治癒システムたる経絡の発動は原始感覚優位で行われるという特徴があって、発動自体が原始感覚の賜物でもありますし、また発動することによって原始感覚が優位になるという逆もまた真なり的存在なんです。
絶大な癒しの気を持つ者は受療者に近づいただけで、原始感覚を優位にできるのでしょうが、普通はそうはいきません。ここにテクニックが必要になってくるわけです。曰く漸増圧、曰く持続圧、曰く筋トーヌス・・・どれも一種のテクニックであって、このテクニックが天性の才能に匹敵するくらい威力があるわけです。
ですから、優れた気功療法家が出来ることは時間さえ与えられればテクニックを駆使して同じことができます。
結局、治癒というのは互いに原始感覚を優位にさせ、一体感を得ることによってしか為しえないものだと思いますね。それが最も効率の良い治癒力発動の方法だと思います。 特に虚証、大病系は。
段々、気宇壮大な話になってきましたが、私はプロの作家じゃないので、実感のないことは書けません。逆に言うと書いていることはすべて実感によって裏付けられているのです。
鈍い痛みのときや重ダルイとき、要は不調時には定位しづらい独特の違和感に苛まれます。
今こうしているときも私の左肩から上腕にかけて、痛みとダルさが混合されたような不愉快な感覚が絶え間なく襲ってくるわけです。(五十肩の悪化した症状)
これぞまさしく原始感覚!
内蔵感覚とも言って、普段意識もしないような部位が、その違和感や不全感のため、俄然意識されてくる状態でもありますね。
これらはマイナスに出た場合の感覚ですが、プラスの原始感覚も当然あります。
例えば、上記のような感覚が消失するとき、ある種の解脱感とともに意識上から消えていきます(痛みが楽になったときのことを思い出していただければ・・)
生命的感覚というのは順調であれば感じず、不調のときに違和感、不全感として感じるという特徴があります。
ですから、原始感覚(=生命感覚)というと、どうしてもマイナスイメージが先行しがちです。そして何かあったときでないと意識されないものですから、普段、この感覚を捉えるのは非常に難しいのです。
普段はどうしても大脳で捉える判別性感覚が優位になって、原始感覚は奥に引込んでしまいます。
例えば、施術時、あ~ここにコリがあるなぁ、と思えば、それは手指の触覚で捉えた判別性感覚によって判断していることになります。
硬結があるとかないとか・・・極めて一般的な感覚でしょう。
覚醒している状態で判別性感覚をなくすのは不可能ですから、これはしょうがないのです。
しかし、我々の施術というのはメスを握って解剖することではありません。人間対人間、生命対生命の触れ合いの中で、まさに一体感をもって治癒力を発動していくわけです。
そういう意味からして、クライアントが常に判別性感覚で(何をするんだろう?)という探るような態度では効果が限定的でしょうし、逆に施術者がいつも鋭い目付きで硬結を探り続けても、一体感を得られるものではありません。
西洋医学から転用された判別性感覚優位の治療態度では、自然療法たる手技の特徴を充分に生かすことはできないのです。
判別性感覚をなくすことは出来ず、原始感覚が奥に引っ込んだままでは一体感を得られないという、まさにジレンマに陥ってしまうのが施術というものの実態かもしれません。
これの解決策は昔から言われていて、まずは習うより慣れろ!(習わずして慣れることはないのですけどね)
動作が無意識で行えるほどに慣れていくことがまず肝要だと教えているわけですね。
これによって、ほとんどの施術動作が歩くとか、座るとか頭を使わずしてできる動作と同等レベルになることによって、より没入しやくするわけです。
没入するということは半覚醒状態に近いので、原始感覚が優位になりやすいのです。
何百回も何千回も繰り返し、徹底的に施術しまくることでしょうね。
この段階が第一段階にして最終段階ですよ。
原始感覚が優位になると、クライアントが抱えている違和感を共有する場合もありますが、、大概、もうそのときは夢見心地で気持ち良いはずですから、その感覚を共有することになります。
施術していて、とても気持ちが良い・・・とクライアントのみならず施術者が感じるのです。
そもそも、他者との一体感は気持ち良いものです、余程の変り者じゃない限り。
よく「大変な仕事ですね」と言われます。また「疲れるでしょう・・」とも。
大変じゃない仕事を探すのは大変です・・・・そんな屁理屈で答えることはしません。
かといって詳細を説明する時間もないですし、分かってもらえるとも思いませんので、「ええ、結構、大変です」と答えることが多いでしょうね。
実際は施術していて気持ちが良いのです。とても気持ちが良い。上手くいくとクライアントと同じくらい気持が良いわけです。
しかし、上手くいかないこともあります。つまり、原始感覚が優位にならないとき、つまり一体感を得られないとき。
相性もあるでしょうし、コンディションもあるのでしょう・・・
施術家が身体をやられるときっていうのはこういう施術が続いたときでしょうねぇ。
これは心底疲れます。
ツボが潰れていて、力押しを要求されたときなども、死にそうなくらい疲れますね。
力押しは筋強縮を伴ないますので、原始感覚が優位にならない、つまり一体感を得られません。
若いうちは色んな経験を積むべきでしょうが、ある程度歳をとったら、こういう要望には応えないというのも選択肢の一つです。客を失いますが、自分を粗末にしちゃイカン年齢というものがありますからね。
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