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指の使い方

 何かで書いた覚えがあるのですが、定かではありません。
 重複するかもしれませんが、ここでも書いておきましょう。

一、

 私の右手は幼少時の事故により、十分に開くことができません。
 ですから、両手を大きく広げ、両拇指の一点圧形式(浪越式)のやり方が苦しくて仕方がないのです。
 無理にやろうと思えばできないことはないのですが、負担がかかり過ぎます。

 その点、足の施術は拳を使ったり、拇指を使うにしても、手を大きく広げるという場面がない分、不便を感じておりませんでした。
 一転して身体の場合、ほとんどの施術家は浪越式に影響を受けているものですから、どうしてもそのやり方をする人が身近にいて、不便ながらも、そういうやり方になってしまいます。

 増永師のやり方が新鮮だったのは、理論もさることながら、指の使い方が全然違うということでした.

 まずもって、手を大きく広げて拇指で押圧するということがありません。
 手指は協働して使うのが理に適っているといって、一点圧形式を使わず、押圧面が2指、3指、場合によっては4指に渡ることも度々で、こういうのもありか!とビックリした覚えがあります。

 増永師の後継者を自称する人が多くいるというのに、どうしてこんな単純な指の使い方ごとき、継承されていかないのか、不思議で仕方ありませんでした。

 最近、なるほど~と得心しましたね。
 押圧のみで瀉法を行おうとすると、増永師の指の使い方ではやはりユルイ。
 お客の要望に応えられない場面が多分出てくるでしょう。
 やっぱり補瀉がコンビでセットになっているわけですよ。
 押圧だけでずべての瀉を行うように設計されていないんですね、施術自体が。

 もちろん、私とて一点押圧で厳しく食い込んでいく瀉法を使いますが、瀉法を拇指押圧だけに求めることはありません。
 要するに、指の使い方云々は施術設計の問題であって、その部分を単独で取り出して評価することはできないんですね。

 施術全体の構成の問題です。

 ですから、関節へのアプローチを封印されてしまうリラクゼーション・ボディ・ケアは我々治療系の施術者よりも遥かに指に負担をかけます。
 リラクゼーションがユルイ手技だと思ったら大きな間違いで、実際は凄いことになっています。現場に入るとよく分かる。(床を押して指を鍛えるんですよ~)
 決して自然な姿であるとは思いませんが、ある制限の中で、お客の要望(時として横暴)に応え、お金を稼ぐというのはそれほど甘いもんじゃないのです。

 何を言いたいかというと、私の個人的な身体特性からいって、増永師の指の使い方は大変に役に立っているわけです。親指や腕に過剰な負担がかかりませんから。
 しかし、その形だけを真似しても、あまり意味がないのです。補瀉のコンビネーションを身に付けないと・・・・指の使い方で流派を区別しても仕方が有りませんが、施術スタイルというのは、その思想の具現化ですから、それで区別してもまあ間違いではありません。特に指の形は具現化の体現化です。

 特に思想もなく指の形にコダワッテいる自称上級者もいますが、いかがなものかと思いますね。
 この業界、本物っぽい偽物が自分勝手なコダワリを撒き散らしているので、困った業界でもあるんです。
 思想もないのに形にコダワるのは他の可能性を封じているわけですから、バカとしか言い様が無く、思いっきり丁寧に言っても、おバカでしょうね。

二、

 指で圧を加えるので指圧ということになるのでしょうけど、圧は指だけで加えるものではありません。

 肘でも場合によっては膝でもOKです。
 膝はちょと特殊ですから、肘について言及して置きたいと思います。

 肘の感覚は指よりもはるかに鈍いわけで、そういう意味では、フィードバック機能が働きづらく、使いづらいでしょうね。
 ただ、耐久力は指の比ではありません。
 ムエタイ(タイ式ボクシング)が恐れられるのは、「肘打ち」というのがあって、これを不用意に食うと、KOどころか、病院送りになってしまいます。
 硬くて、スピーディに動かせるという意味でも格闘技上、大変な武器になるわけです。

 その肘を上手に使えるということは、威力のある瀉法を使えるということでもありますし、自分の身体の負担を軽減することができるということでもあります。たしかに指よりは使いづらいのですが、是非研鑽しておく必要がある所以です。

 肘を折り曲げる角度によって、広い面積の圧迫となりソフトな圧を送ることもできますし、鋭くギュッと入る瀉法ともなります。ですから、ホントは便利な部位でもありまして、これに習熟しないのは施術家として実に損なことになってしまいます。

 フィードバック機能が働きづらいのは仕方ありません。これは指に優るものはないですからねぇ。しかし、慣れです、何事も慣れでございますでしょ。
 慣れれば指と同じように分かってくるものです。

 あと気をつけなければならないのは、一部の按摩師に見られるように、肘を使って揉みあげるような操作をしちゃイカンということです。いわゆるグリグリ揉み。
 肘は威力があるだけに単純推圧のみに限定すべきでしょう。
さらに増永師が提唱するように決して筋強縮で押してはいけません。肘こそ筋トーヌスで押さねばならないのです。そうでなれば、受け手も硬いだけに違和感を感じるんですね。

 肘を肘だと意識できないほどに筋トーヌスで施術するわけです。そのためには施術者の体勢が非常に重要になります。施術者は受療者に程よく密着し、身体を自然な形で預けられるような姿勢を横着することなく見出していきます。これが非常に大事なことでして、肘操作の要諦であると言っても良いでしょう。

 総体的に言えるのは慌てて押すと、失敗しやすいもの。
 指で押すとき以上に落ち着きが必要です。

 最初はかえって気を使い疲れてしまうでしょうけど、なんども言いますが慣れです。これに習熟すれば、指を怪我して使えなくなっても施術ができるわけですし、施術家寿命も長くなるわけですから、良い事づくめです。

 足の施術を肘で出来るか?と問われれば、う~ん・・・と唸ってしまいます。

 まず仰向けでは難しいでしょう。
 しかし、うつ伏せでは出来ます。むしろ施術ベッドを使う場合はやり良いくらいです。

 肘が良いって言ったって、全部を肘でやるわけではありませんから、あくまでもケースバイケースです。

三、

 同じ姿勢で同じ箇所を使い続けると、驚くほど耐久力がないのはご存知のことと思います。同じように姿勢を変え、使う部位を変えると、これまた驚くほど耐久力がアップします。
 わずかな休息の間に復元するわけです。人の身体というのは使い方次第で、早くに故障したり、長持ちしたりする所以ですね。

 コリは気の残りですから、休息しているつもりでも、その部分が働き続けている状態を言います。場合によっては寝ているときにさえ働いているわけですから、これではたまったもんじゃありません。

 気を抜くことがコリ性の特効薬なのですが、意識して抜けるものでないことはご存知の通りです。そこに我々の仕事の意義があるわけです。
 揉みほぐすのでも、押し潰すのでもなく、自らからフラットになるように誘導するのが正しい考え方ですし、正当な施術のあり方なのですが、中々世の中の人は理解してくれません。っていうか、業者にその意識がないのですから、どうしようもないですね。
 コリを見つけて解し、潰す・・・これじゃドンドン硬くなっていくに決まっています。

 クライアントのことばかり言ってられません。我々も疲れるわけですし、気が残ってしまうことがあるわけです。このようなことから、身体のあらゆる部位を使い、一方に偏ることなく施術するのは当然のことです。それでも、疲れが残り、コル場合は仲間同士、コリを誘導し解消させる訓練の場にしたら良いと思いますね。

 仕事がら腕が疲れやすいのですが、腕の強圧は最後の手段。凝り固まってどうしようもなくなったら仕方ありませんが、そこまでいかないのなら、軽く腕を揺らされるだけで、解消の方向へ誘導されていきます。これは自分で揺らしてもできません。完全に力を抜いた状態で他力が必要なのです。

 ほんとに力を抜くことができたなら、わずかな刺激によって、コリが解消していくという事実。その感覚を会得していくわけです。孤高の人も良いのですが、こういう時は仲間は絶対に必要でしょう。
 自分では力を抜いているつもりでも、実は抜けていなくて、信頼出来る人に触られてはじめてドンドン抜けていく・・・・こういうことを体感していくことが大事なのです。
 そうすれば、無茶な強圧など必要ないのだなぁ、と身体で納得できます。

 またどんな施術なのか探るような態度で施術して貰っても無意味です。力が抜けないのはいわずもがなでしょう。ボクが試技を好きになれない理由が分かるかと思います。試技には被術者の探る態度が付き物ですから、判別性感覚が優位になって原始感覚が全面に出てきません。結果、一体感が得られなく疲れるのです。

 やられている最中、そこをもっと強く押して!とは絶対に言わないことです。これは感覚の訓練ですから、それをやってしまえばどこぞのマッサハウスに行くのと変わらなくなってしまいます。とにかく、信頼して任せる。信頼できなければ任せられないわけですから、施術というのは究極的には信頼感に帰着するのか・・と思い至るに違いありません。

 まずは施術の受け上手になることです。
 話上手は聞き上手、という言葉もあるごとく、する側として上手くなりたいのなら、される側の達人になることでしょうね。

 面白いことに実技の試験官を長くやっていると、あら探しがメインになってしまうため、決して受け上手にはならないという現象が起きてしまいます。
 受け上手じゃないのでしたら、施術上手とも言えないわけでして、試験官をやっていると施術技術がドンドン退化していくことになるという皮肉な結果になるでしょう。現役の施術者なら、実際の施術で退化することは防げますが、一線を退いた施術者が職業的試験官を務めているとなると、これはもう、パフォーマンスの低下は免れ得ません。勘が狂いまくっていることは間違いないでしょうね。
やっぱり施術家は一生施術から離れたらダメなんです。
(業が深い職業なんだよ~)

四、

 指の使い方という題名からずいぶんズレた話題になってしまいました。

 まっ、いつものことです。

 日本的な手技法というのは、かなり指の使い方に特徴があるでしょうね。

 カイロやオステなどはまず親指を使う場面が少ない・・・(ないとは言いませんが)

 タイ古式マッサも親指を立てることはしませんね。

 英国式リフレでサムウォークという技法があります。寒ウォークではありません。
 親指を歩かせる、という意味の技法ですから、モロ親指を使います。しかし、親指を這わせるような動きでして、この動きは日本的ではないですね。異質です。

 中国式リフレは親指を使うにしても、関節を使ったりとこれも日本人からみれば異質です。

 なぜ日本人は親指を、しかも立て気味にして使うのか・・文化人類学的に興味のあるところですが、いまのところそういうもんだと納得するしかありません。
(なぜ日本人はノコギリを引いて切るのか!という問に対する答えがないのと同じ)

 しかし、極端に親指に頼り過ぎていることも確かで、これによって指が壊れている施術者も多くいるわけです。
 ヘタに治すとまた痛むので、適度に壊れたままにしておくのがよろしい!という意見もあるそうで、それを聞いたとき、ビックリ仰天。

 ツボに入ってくる感じを重んずるというのは、民族特性ですから、別に良い悪いの問題ではありません。むしろ誇るべき感性かとも思うのですが、それらを全部親指に請け負わせるのも如何なものかと思うわけです。ましてや親指が破壊されている状態を良しとするのは常軌を逸しています。

 ボクが身体の施術に取り組んだとき、足揉み出身であることを感謝しましたね。

 示指関節押圧が簡単にできるわけです。示指関節と親指を併用した二指押圧も違和感なく出来ました。モチロン、三指押圧も、四指押圧も。
 増永師が提示している指の使い方はすべて、足揉みでやっていた応用でした。
 これはホントに助かりました。練習する必要がなかったからです。
 な~んだ、この指の使い方で良いのかぁ~と新鮮な驚きでしたねぇ。

 後に示指関節をやや寝かせて使うと、ピタリと頭蓋縫合にハマることを発見して頭押圧が大好きになったのは、クラニアルへの伏線だったのかもしれません。

 余談はともかくとして、指はそれぞれ協働して使わねば疲労が激しく、長持ちしないのは増永師が指摘するまでもなく、真理ですね。

 さらに腕と身体も協働させねば、極端な腕の疲労を招きます。
 そもそも指と腕だけでの押圧行為など不可能に近いもので、身体の支えなくして行えるものではないのです。

 あえてやろうとすると、判別性の交感優位となり、表面で弾かれてしまいます。
 足の施術などは良い例で、身体の操作に比べ、歴史が浅いため、とてもじゃありませんが原始感覚を優位にする技法などありませんでした。
 これを刺激で補うため、強いフリクション(摩擦)が主流になったのでしょう。

 そこで私は腕を大腿部で支え、下向きにかかる重力を水平方向にベクトル変換させることにしたのです。これによって、横向きに素直な圧が加わり、原始感覚優位の施術スタイルを確立しました。足揉み史に残る偉業だとは誰も言ってくれませんが、そのうち誰かが言ってくれることは・・・ないか・・・
(この業界、手柄を横取りするのは日常茶飯事ですから、商売上手者の手柄になる可能性が大ですけどね)

 結局のところ、それぞれの指、手指、手指と腕、腕と身体、これらが常に協働しなければ良い圧になりませんし、原始感覚が優位になってきません。原始感覚とは生命感覚ですから、この感覚を如何に引き出し、自身もそうなれるか、というのが施術の目的でもあるわけです。つまり、手指の使い方という一見枝葉末節のようなことが、本質に関わってくる問題に発展するわけで、疎かには出来ないのです。

 互いに原始感覚優位になったとき、一体感に包まれます。このとき、気が見える人がいたなら、施術者と被術者を一体として包む気のフィールドが見えるはずです。

 見えなくても、やっている方は分かります。施術していて、やたら気持ちが良いのです。安心感と落ち着き、平常心と信頼感・・・生命という捉えどころのない漠然としたものを直に感じ続ける体験は施術家でなければ、中々味わうことができません。

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