(一)
「足証整体」というネーミングを考え出したとき、我ながら、なかなか良い出来だわい!と自己満足しておりました。
(漢方的に非常に意味がある)
しかし、足利証券の略?なんて言われてガックリ・・・
(証券会社が整体までやるようになったかぁ、なんて思う人もいたりしてね)
そこで、もう一つ、ちょと外国風な名前も必要かな、と考えたのがリフレパシーでございます。
綴りで言えばreflepathyですから、リフレッシュ(refresh)ではなくリフレックス(reflex)の意。つまりリフレクソロジーのリフレなんです。どっちでも良かったんですが、どんな方法論であっても刺激である以上、広義の意味での「反射」は付き物。そんなノリで綴りを決定し、こんにちに至っているわけです。
完全に私の造語ですから、そんな言葉は他にありません。
さてさて、最近はこのリフレパシーという言葉を使うことが多くなりました。
理由は様々あります。
第一に足証整体・明生館とか、伝統医学手技法研究会とか、私が考える名前というのは硬い響きがありますよね。マニアック過ぎるというのか・・・
しかしリフレパシーなら柔らかい感じがするでしょ。得たいの知れない響きはあるにしてもですよ。ヘタするとヘナチョコ整体っぽい感じもしますけど、ガチガチよっか良いかなと。 ようはネーミングっていうのは聞き慣れるかどうかなんですよね。
あと最大の要因は肩書き・・・・
「肩書き」っていうのは普通、そのサロンを主宰しているなら「主宰」ですし、塾なら「塾長」だし、院長でも学院長でも良いわけだ。
ただ、それって、その人の立場を表しているだけで、何が出来る人なのか、というものではありませんな。
そこで整体師とかリフレクソロジストとかいう肩書きもあるんですが、これはありふれていて面白くない!流儀を表すものじゃないしね。
一度使ってみたかった肩書きに~パスというものがあります。
パッシブルが原義でしょうから、「~が出来るとか」「~の能力がある」という意味なんでしょうね。
そこで「オステオパス」なんていう言い方が出てくるわけ。
直訳すれば、「オステオパシーの技術体系を使いこなす能力のある人」くらいの意味でしょうね。正式な資格名称です。(日本では商標登録されていて、本場でこの資格を取得してもこの民間団体に所属しないと名乗れない・・・実に変な話になっていますけど)
テレパシーの使い手のことを「テレパス」とも言いますな。
というわけで、リフレパシーの技術体系を使いこなす能力のある者のことを「リフレパス」と呼んでも良いですよね。この肩書きが最近のお気に入りなんです。
「リフレパシーの技術体系を使いこなす能力のある人」即ち「リフレパス」ですが、そもそもリフレパシーの技術体系とその背景にある思想とはなんぞや、ということになります。
定義が必要になりますよね。
一度定義し、なお再定義したりしていますが、頭の中では出来上がっているのですが、中々上手く文章表現できません。要はなんでもありなんですけど、それじゃ流儀になりませんものね。
増永経絡を研究していて、増永師がいうような反応が現れ、驚嘆すること度々なのですが、フルフォード博士の三関節原理のほうがスキッと理解しやすい場合もありますし、まさにその原理が働いているなぁ、と思うことも度々です。
一見すると、なんの関係のない原理のようにも見えますが、底流では共通する原理が働いています。死者には働かない原理、つまり生の原理、即ち、生命力の発露。
流派、流儀問わず、その原理なくして技術体系は成り立ちません。
その大局に立てば、方法論など枝葉末節なことでございましてね。コップの中の争いにしか過ぎません。しかし、方法論によって体系化されているのも事実ですから、それを具現化するためには型も必要になってくる、ということです。
ある程度パターン化しておけば楽ですから。
(二)
リフレパシーを一言で定義するなら・・・やっぱり一言で定義できないものですなぁ。
それでも一言で定義するなら「頭蓋仙骨足底療法」かな。
いずれも「本治」的なものなので、実際の施術は「標治」が優先しますから、必ずしも頭蓋、仙骨、足底に拘りません。とりあえず症状を改善、寛解させるのにはトリガー・ポイントを使うことも多いですし。
本質的な生命力の発露というのは、「生命の座」的存在である脳の活性、その入れ物である頭蓋の動きに関係します。
生命エネルギーの発生は背骨の土台である仙尾骨の働き如何によると思いますし。
つまり、フルフォード博士をはじめ多くのオステオパスが実感してきた経験は真実だと思うのです。
さらに足底は荘子以来、呼吸の要としているのも比喩ではなく、健康というものの本質を突いていると思います。これは私の25年の施術経験からの結論なので、トラスト・ミーとしかいいようがないんだけど、多くの施術者から支持されると自負する次第。
しかし、本治療法をしたからと言って、すぐに症状が改善するわけではないのは「標を先とす」という漢方の格言に明らかなわけです。
ということで個別の固有のアプローチ法が生まれてくる下地があるのです。
それは経絡的に診ても関節を主体に診ても良いのですが、ベストマッチ&ベストポイントをいかに選ぶかということが施術者の腕の見せ所でしょう。
標治的な改善施術をしているうちに、頭蓋の動きが回復したりするのは日常茶飯時なので、特に頭蓋仙骨療法を取り入れなくとも、本質的な改善はできるし、事実、頭へも仙骨へも足底へもアプローチしないで実績を挙げている施術家もいるわけです。
まあ要するに流儀の問題なのですが、そう言ってしまえば元も子もない話になりますよね。だから上手く定義できない・・・
身体に働きかけをするとき、そこには意志も働きます。施術者の「意志」が非常に重要なのはある程度の経験者ならご承知のとおり。
よく「圧が浸透する」っていう表現をしますが、ホントは圧の浸透じゃなく「意志の浸透」って言ったほうが良いくらいでしてね。物理的な刺激だけなら、どんなに上手くやっても最終的には相手の身体を傷つけてしまいます。
安っぽいバイブレーション機器だって、施術者の強力な意志が伴うとき、それは実に効率の良いエネルギー解放装置になることもあり得るのですから。
各技法群は施術者の意志が働くことを前提にして作られているわけで、そういう意味でその人の流儀にはその人の意志がもっとも強力に働きやすいわけです。
「頭蓋仙骨足底療法」と定義した途端、他のどんな流儀の施術家よりもそこに働く意志の大きさは強大になるのは当然ですから、そのことに関する限りはもっとも効率の良い施術をすることができますよね。
カイロプラクティックの中でよくガンステッドの技法群を身に付けた施術家は他を否定する傾向があると言います。否定まではしないものの、ちょっと傲慢かもしれません。難度の高い技を身に付けたという自負があるのでしょう。
しかし、難度の高さとともにこの自負心が効果に大きな影響を与えているような気がするのです。
自信とか自負心とかは難度が高ければ高いほど、より強く持つものですよね。
誰でもできるような技で自負など生まれようがありません。
つまり、技の一つ一つに強烈な意志が働くんですね。言葉を変えると、技に気が乗るっていうのか、気が入るっていうのか・・・
ですからガンステッド法に熟練した使い手は瞬間気功の達人に見えるときがあります。
その伝でいけば、自らの流儀を規定するときにその技法群に気が乗るのは当然の話でしょう。その流儀じゃない施術家よりもはるかに上手くできることはこれもまた当然のことです。
人間というのは自らを規定しないと中々上手くなれないように出来ているわけです。
しかし、ある段階ではその規定が障害になったりもするから、人生同様難しいものです。
(三)
どんな療法でも、全身的な循環は重要視します。
循環の当面の敵はコリですから、何らかの形で本丸施術の前にこのコリを何とかしようとします。
さて、このコリを取る方法は様々です。
日本人が感じやすい肩のコリは肩に力が入ってそれが抜けないのが原因ですから、肩を揉む必要は本来ありません。
力が抜けるように誘導すれば良いわけ。どうしても抜けない人には荒療治ですが、一旦強圧し、身体に力が入る状態を人工的に作り出します。一旦力が入ったのち、抜けやすいのは昔から知られている事実ですからね、この身体特性を利用するわけです。
いずれも肩を対象するわけではなく、安全な足や腕などの施術で肩コリが抜ければベストですね。
私も若いころは肩コリ知らずで、余程でないと、肩周辺に違和感を感じなかったものです。
たまたま感じたとしても、肩など揉む必要はなく、足を揉んでくれただけで、スーっと肩コリが抜けたものでした。というわけで、ホントはこんな感じで抜ければそれに越したことはありません。
ところが、そんな程度で抜ける人ばかりではないのはご存知のとおり。
年齢とともに歪みが深くなりますし、復元力が低下します。
そんなんで、肩もまた直接の対象になってしまうのは止むをえませんね。しかし、それが当たり前と考えるのではなく、必要悪くらいの謙虚さが必要です。
ですから、リンパ流なり血流なりの循環を確保するためのコリ解消はある意味、それ自体が目的ではなく、これからやろうとする術式の有効さを高めるためにやるわけです。
特に頭蓋仙骨療法は背骨の際のリンパ流がしっかり確保されていないと、効果が半減しますからね。なぜなら、脳脊髄液とのリンパ交換が成否を握りますから。
故に背骨の際のほぐしが必要といえば必要です。頸椎の際も例外じゃありません。
しかし、これには力が要りますから、フルフォード博士などはパーカッションハンマーと呼ばれたマッサージ機を上手く利用していたわけです。
日本には伝統的に「背押し」という古典的な技があります。あえて技と表記したのは、単に背中を押すだけなんですが、これがまた中々テクニックが要る。
かつて畳の上の土方と揶揄されたくらい指を酷使する作業でして、外国系の施術者には絶対受け入れらないと思いますね。
下手にやると慢性的に指が壊れる原因にもなる技法なのですが、上手くやれば、世界中のどんな技より背中がほぐれるわけ。
残念ながら、日本ではこれを背中をほぐすためだけの目的で行うのだけれども、背筋の循環確保という頭蓋仙骨療法の手段として行えば、相当に有効でしょう。
しかし、日本の伝統的な施術者達は頭蓋仙骨療法の概念すら知らない。
だからコラボレーションする意義がある。
私がこれまでやってこれたのはコラボしたからであって、本式に必ずしも忠実ではないんです。勿論、それはそれで批判はあるでしょうけど、だからこそ、だれにも迷惑をかけないリフレパシーと造語を名乗っているわけですよ。
でも正直な話、日本の伝統的スタイルとのコラボの威力は凄いですよ。
短所同士コラボさせてもそりゃ凄くないけどね。
少なくとも長所と思われる部分を掛け合わせると2乗に比例します。
異文化で育ってきたものですからね。古今東西、こういう掛け合わせは凄いものになるって決まっているのですよ。
じつは、頭蓋仙骨療法は日本の伝統的な手技と相性が良い。
なぜかと考えるならば、適度に遺伝子距離が離れているからですな。
近親憎悪がない。
しっかり押圧する日本的手技とほとんど触るだけの頭蓋療法のどこが相性が良い?と疑念を抱く方は受けてみれば分かります。
(四)
経絡をどう取り入れるか?
実は経験の長い施術者なら、経験則的に経絡にアプローチしています。
経絡というのは、力でぐいぐい押しても、延ばしても反応するものではないのです。
力を入れないで脱力感覚で操作するときのみ、経絡効果が生まれる。
この感覚は別に経絡治療を標榜している施術者だけのものではなく、疲れないで行う身体操作に共通する原則でしょうからね。
筋肉だけ延ばされて、経絡が伸びないなんて現象が物理的にあり得るのか?と科学的思考(?)の持ち主なら疑問に思うところでしょう。
物理的に延ばされるというのと、よく反応するというのは別物です。
経絡は反応させないと意味がないのです。
初心者のうちは効いたと言わせたいばっかりに真っ赤な顔して力押ししようとしますが、労力の割には全然気持ち良くないし、効かないし、身体が傷つくのがオチ。これは経絡効果が0に近いからに他なりません。
経絡が反応する押し方、操作の仕方というものがある。これは流派を問わず、そういう操作の仕方になってくるものです。
施術者の意志にもっともよく反応するのが経絡なのは私の拙い経験で熟知しておりますから、どんな療法家でも究極的にはすべからく経絡治療家と呼んでも差し支えないだろうな、と思う次第です。
身体操作というのは経絡反応を起こさせないと意味がないどころか、長期的には害になると思いますね。
リフレパシーであろうと、オステオパシーであろうと、カイロプラクティックであろうと、筋筋膜治療であろうと、熟練した施術者ならしっかり経絡反応を起こさせています。
これは施術する姿をみるだけで分かる。
ただ、目に見えない、分かりづらい虚にアプローチできるかどうかでしょうね。
これができればほとんど増永先生レベルなんですが、そう簡単ではありません。
そのレベルはしばらく、あるいは一生無理としても、少なくとも、筋肉を意識してコリをほぐそうとか、力みが入るような施術は厳に慎まねばなりません。
そうはいうものの!現実にはちょっとやそっとじゃないコリコリ、ガチガチ人間がいるぞ!そんなヤワなこと言っていては商売にならぬ!とお叱りを受けることもあるでしょう。
ごもっともな話ですし、そういう経験も幾多ありますから、気持ちもよく分かります。
そういう場合は刺激の種類をちょっと変えてみると良いと思いますね。
運動法を加えながら、押圧してみるとか。2種類の異なった刺激を同時に行いますと、そういう刺激にはまず慣れていませんから、相当ガチガチの人でも緩んできます。
押圧だけで、あるいは揉みだけで取ろうとするから、どんどん力が必要になってくる。
要するにコリとは気の残り→ノコリ→コリなのですから、誘導し散らすという考え方が重要なんです。
ある意味、残留思念であって、オカルト的に言えば地縛霊みたいなもんですよ。
地縛霊は冗談ですが、少なくとも自分で呪縛していることは間違いありません。
まあ、コリを取ることをはじめとして、全身の体液循環を良好ならしむることは必須でしょう。
ただ、何回もいいますが、これが目的じゃありません。手段、あくまでも、前段階としての手段だということをお忘れなく。
手段ですから、技法的にこうでなければならんという形式的な決まりはないものです。
しかし、野放図というのもおかしいので、ある程度標準的な形は決めておかねばならないでしょう。
またコリが酷い場合の対処法とか、そういう個別的方法も必要になるでしょうね。
まあ、そんなことで「ウチの流儀は・・・」などとことさら言いたてることもないと思います。
でも現実にはそんな枝葉末節で流儀を立てていたりするのですから、日本人というのはつくづく流派とか派閥が好きな民族なんだなと思いますね。
全身のコリが取れました!
循環がとても良い状態です!
じゃ~ね、お大事に~、またのお越しを!
これじゃ面白くないし、健康ランドで受けるリラクゼーションと変わりません。
ここから何をしたいのか!という明確な目的がないと。
それなくしてカウンセリングもあり得ないしね。
ときどき、天才じゃないかと思うくらい揉みほぐす手技が上手い施術者がいます。
こういう人でも開業できないこと度々で、一生サロンを転々とすることになるケースが多いわけです。
逆に小生みたいにさほどほぐす技術が上手いとは言えない施術者でも、ほぐしの先にあるもの-身体の全体図みたいものを掴んでいると、どこで開業してもやっていく自信は出るものでしてね。
個別の手技が上手いかどうかなんて、あるレベル以上になるとあんまり関係なくなります。
まあ、いずれ分かることですけど。
(五)
ところで、話は違いますけど、「奴隷」と「自由市民」の違いって分かりますでしょうか?
貧乏と裕福の違いじゃないのです。
自分の主体的判断で行動できるかどうか?-定義するとこういうことなんです。
これが出来ない人々のことを奴隷と言い、古代社会では大変重宝な存在でもあり、またそういう境遇を蔑まれていたり哀れに思われたり。
あまりにも気の毒なので、古代ローマでは医師と教師に限り、ある年数ローマに住み、貢献した者には市民権を与えるという制度が設けられました(医師や教師が奴隷だったというのも面白い話ですが)
市民には兵役の義務やら税金やらで、メリットがなさそうなんですが、さにあらず!
なにせ、自由意思による選択権が与えられる。
職業選択の自由と居住の自由。どういう仕事についてもどこに住んでも良い自由です。
(日本では憲法第22条に定められた基本的人権の一つです)
これがなにより貴重と考えられていたんですね。他人の意志に従わねばならないほど不幸なことはないーこれがのちのヨーロッパ民主主義誕生の背骨となりました。
「人は生まれながらにして自由である」っていう有名なやつ。
余談はともかく、古代ローマでは「なんでオレたちに市民権が与えられない!オレ達の仕事が医者や教師に劣っているとでもいうのか!」と大変憤慨し、あろうことか、奴隷の身分でストライキを起こした職能集団がありました。
古代社会ですから、普通は処刑されると思いますでしょ。ところが時の皇帝は諸般の事情に鑑み、これを許可しました。
その職能集団こそは大浴場で活躍していたマッサージ師達。
この人達がストライキを起こしたら、大変困る。なにせ、ローマ市民の最大の楽しみですからね。仕事が終わって大浴場で一風呂浴び、マッサージを受けるのが・・・
このストライキ問題が長引くと、その矛先は皇帝に向けられます。皇帝といえども市民の人気には異常に気を使ったのがローマの特徴ですから、事態を収拾すべく決断したってわけです。
そこまで、計算していたとすればマッサージ師達のリーダーは相当に頭の切れる奴だったことは間違いありませんね。
ともあれ、めでたくマッサージ師達もある年数頑張れば市民権を得ることが出来るようになったということです。
現代では職業選択の自由は保障されていますし、いつでも好きなときに辞める自由も担保されています。そうい意味では奴隷など一人もいません。
しかし、そうい意味の奴隷はいないにしても、増永師がいう施術者の主体的な意志を行使できている施術者は日本にどれくらいいるか、はなはだ疑問。
顧客の感想だけに頼る施術者は最低とも言っています・・・こんな憎まれ口をきくから、業界で嫌われたんでしょうけど、その心は「それを業となす者は不断の努力と修行によって、自ら判断できる能力を身につけよ」という意味であることは行間を読めば一目瞭然。
ところが実際問題、現場においてこれをやるには不可能の場合が多い。
顧客が「強めに!}といえばそれに従わねばならないし、「首と肩を重点に!」にと言われればそのようにやるしかない。
(これじゃ、奴隷とたいした変わんないなぁ)と思ったものです。
ある時期、そのような環境でとにかく数をこなす必要はあります。しかし、いつまでもこんな環境で仕事をしては自らをスポイルしてしまうと思いますね。
古代ローマのマッサージ師がどのような対応で市民達に接していたかは文献が残っておらず皆目分かりませんが、命を賭して市民権獲得に動いた事実を考えれば、顧客の言いなりになっていたとは考えづらい・・・長い間に蓄積された言い伝えや経験則を元に相当に言いたいことを言っていた図式が目に浮かびます。
だからこそ、市民に人気があり、また自分たちの仕事を「医者や教師の仕事に劣るとでもいうのか!」という強烈な自負の言葉として吐き出すことにもなったのでしょう。
してみると、現代の大浴場のマッサージ師達(まあ言葉はどうでも良い)は古代ローマのマッサージ師達よりも気持ちの上では奴隷的ですな。
他人の評価でしか自分を評価できない・・・他人の感想以外に評価基準を持たなくなるというのはまさに奴隷なんです。
強めといわれれば強め、弱めといわれれば弱め、腰といわれれば腰・・etc
これでは何十年経っても進化はある方向にしか向かいません。
言われたところを懇切丁寧に、かゆいところに手が届く・・・技能者の鑑みたいな感じですが、そうではありません。施術者の主体的な判断がないから、一種のロボットですね。
人間はロボットにはなりえませんから、それを奴隷というわけです。
しかし、現代においては奴隷にもなりきれませんから、はすっぱな" 崩れ"みたいになり果てる。どこか手を抜くすべを覚えてくる・・・こうなると、いくら一念発起しても、もう治療家にはなれません。
治療家になることだけが、手技を志す者の目的ではないにしても、なんとなく寂しいような気がします・・・大きなお世話かもしれませんが。
(六)
「我」をなくし、無心に施術せよ。
増永師の著作の中で再三、出てくる表現です。
フルフォード博士も同じような内容のことを述べております。
接点のない両巨頭が同じような結論になるということは、おそらく真実に違いありません。
私の後半の施術家人生というのはこのテーマを追っかけてたと言っても過言ではないでしょうね。
無心を心が無いと解釈すれば、機械に勝るものはなく、マッサージチェアが一番効くことになる。そうじゃないことはご承知の通りです。
では無心とはどのようなことをいうのでしょうか?
小生、これを「忘我」と解釈しております。
人間である以上、心をなくすことはできませんし、「我」をなくすこともできません。
そんなことできる人は化け物か、バカ者のどちらかでしょう。
したがって、専心することによって、無我夢中になる、所謂「我を忘れる」=「忘我」の状態で施術することが凡人として出来る精一杯のところだと思っているのですが・・・
忘我の状態で施術できるとなれば、少なくとも、焦りや疲れや、意欲の減退や、逆に功名心などとは無縁での心境で行うことになりますよね。
一つ一つの操作に誠意を込め、相手の身体から感じられることに夢中になっていく。治るだろうか?と不安も感じず、治してやる!という邪念もなく、あるのは今現在その瞬間の行為のみ。
確かに、本当に、嘘偽りなく、増永師が言っていることは真実です。
このような施術に経絡は反応するのです。
経絡と表現するのはその方が分かりやすいからで、生命力でも良いし、治癒のエネルギーと呼んでも構わない種類のものです。
施術というのは、生きている人間が生きている人間を対象に行うため、そこにはどうしてもスピリチュアルな部分が入ってきます。
それを単に施術者と受療者との相性と呼ぶ場合もありますが、もっと突き詰めれば、ある種の波動的共鳴が起きやすい者同士なのか、そうじゃないのか・・・ということになるのではないでしょうか。
この時、施術者の「我」が強く、あるいは邪念があれば、共鳴できる人の範囲は狭くなるでしょうし、逆なら、広範囲に渡るでしょう。
ここに「我」をなくそうとする意義があるように思うのです。
さて、この部分だけを突出して論じてしまいますと、まさにスピリチュアル系そのものになってしまいます。施術は物理的な技術を駆使して行うものですから、技術軽視とも取られかねません。
言いたいことの本質はそうじゃない。
技術を練磨するのは、その技術を駆使するのに意識が働かないようにするためだと思います。
ほとんど無意識のレベルで技を駆使できるところまで技術を高めていくことに技の本質がある。これを「筋トーヌス状態で行う施術」と増永師は表現しておりますが、言い得て妙だとは思いますね。
もともと“技術”とは人工的で作為的なものなのですが、これを訓練(っていうか慣れ)によって、無意識化することを練磨と呼ぶわけですよ。
だから、疲れる施術や力が入った施術では意識が働いてしまうので忘我にはなれません。したがって、経絡は反応しない・・・昔から皆そのことをよく知っていたのだと思います。
足揉みの世界で特に顕著なのが「ビギナーズラック」
初心者がビックリするくらい効果のある施術をすることがある。
言われた通りの施術をすることで精一杯!当然、邪念もなく、余計なことも考えない。一生懸命やるしかないのが初心者です。
この心の有り様が経絡を反応させるんです。
やがて慣れてくると、施術自体は上手くなるのですが、大した効果がなくなる。
これを心理学用語を転用して「プラトー」(高原、踊り場)と呼びます。
このプラトーを乗り越えられる人は実は数が少なく、全体で1割にも満たないでしょう。
このように心の有り様は非常に重要です。
技術があるレベルに達したのちはすべからく術者の心の問題となります。
心の問題にゴールはありません。だから、いつまでたっても勉強と・・・そういうことになるわけ。
(七)
心の問題、有り様を扱う文章は書きづらい・・・
まあ、不得意分野と言っていいかもしれません。
しかし、施術家の心の有り様が如何に施術に影響を与えるかを考えると、書きづらいながらも、誤解と偏見を恐れず、書かねばならないという妙な使命感を感じるのです。
施術家が受療者を前にしたとき、あるがままに診ることがまず肝要ですわね。
気負うこともなく、臆することもなく・・・
これを増永師は「待ちの姿勢」と呼びました。
待ちの姿勢とは文字通り、受動的であり、決してこちらから向かっていくという戦闘的なものではありません。
人生は戦いですから、会社生活の中で「待ちの姿勢」を貫くと、えてして「指示待ち族」と軽蔑される恐れがあります。
率先垂範!自ら目標を定め自ら向かっていく!
会社員はこのようなタイプが好まれます。もちろん、幹部もトップも。
ところが施術家が受療者を迎える態度というのはそういうものではありません。
弱みは隠すもの。弱みを突いたら、かたくなにツボを閉ざします。
虚が現れてくるまで、じっと待っていなければなりません。
鳴くまで待とうホトトギス・・・どちらかというと家康的な態度でしょう。
能動的な受動的態度という言語矛盾しそうな複雑な心の在り方なんですが、このコツを会得しないと施術家として大成しないと思います。(どのような流儀でやるにせよ)
そして施術に没入していったとき、必ず勘が働くときがあります。
あっそうか・・・この人はこうだ!ここなんだ!虚が見えた瞬間です。
このとき経絡が反応しないはずはありません。
その瞬間、受療者はストンと落ちてしまって前後不覚になること度々。
(おい、寝るなよ~)
単に気持ち良くなって寝るのと、全経絡が活性し、その働きを意識が邪魔しないように自ら意識を遮断するのとでは現象は似ているのですが、本質が違います。
この違いが分かるのは、本人よりもむしろ施術者なのです。そういう施術を繰り返し行っていると分かるようになるものです。
神経系が陽の働きなら、経絡は陰の働きですから、身体が休息状態のときに働きやすいものです。それで副交感とほぼ同列に論じられることが多いのですが、正確にはそれとも違い、もっと原始的、細胞的なレベルのものです(といっても分かんないでしょうけど)。
客観的な検証はそれで症状に改善があるかどうか、でしょうね。
単に寝ているだけなら、ない!
全経絡が活性して意識がないのなら、何らかの改善があります。
(メンケン反応ということもあるけど)
いずれにせよ、経絡(治癒システムの発動)はある条件下で最高活性となり、その条件の一つが施術者の心の有り様であることは間違いないと言えるのです。
これは流儀を問いません。
(八)
人間っていうのは心の持ち方次第で、普段、思ってもいなかったような頑張りができるものです。
病は気からという言葉があるように、少々のことなら気力で吹き飛ばすことも可能ですし。
ところが、それが全然通用しないこともある。
所謂、闘病(病と闘う意志)は結核には功を奏するのに、ガンには逆効果になる場合が多いと言われています。ガンを克服した人達に共通するのは闘病的態度というよりもむしろ諦観的な一種の悟りの境地に似た心持のようです。
戦った人はまず敗れる・・・多分、ガンは戦うべき外敵ではなく、許すべき身内なのでしょう。
まあ、それについてはまた書く機会があれば書きたいと思います。
さて、人間の精神力というのは、一時的には(多分一年くらい)は張り詰めていられます。身体が丈夫なら、健康にも全く影響なく・・・・
しかし、張り詰めていなければならない原因がなくなったとき、一気に反動が来て、今までの分を取り戻すかのように、眠いし、だるいし、やる気が起きないしで廃人のようになってしまう例が多いわけです。(極端な例はウツでしょうな)
これが頑張り過ぎた後やってくる「燃え尽き症候群」
そうした状態になっている人に「頑張れ!」と言ったら、精神の内奥から反発されますよ。本人も反発していることに気づかないくらい心の深層で反発するわけ。
充分に頑張ってきて、もうこれ以上何を頑張れというのか・・・反発するというより悲しくなるかもしれません。
励ましの言葉がいつも救いの言葉にはならないのです。
ここから立ち直るには本人が気づくしかありません。しかし、自ら気づく僥倖は誰にでも期待できるものではありませんね。そこで、精神科医や心理士なりが、気づく方向に持っていく・・・カウンセリングは非常に有効な所以です。
時々、施術の際、(この人張り詰めているなぁ)と思うことがあります。対面で行う足の施術で感じやすいのですが、もちろん全身施術の中でも感じること度々。
そういうときは、あえて言葉にしないで、(いや~頑張ってんだね~、もう無理することないよ~、芯からくつろいでください・・)と身体(経絡)に言ってあげると、そこからガガーッと緩むことがあって身心一如とはよく言ったものだなと再確認します。無意識で色んなことを感じているんですね。
人が人の身体に触ることの意義をあらためて感じます。
いよいよ、限界に近付いてきたら、言葉なんて要らないんです。ただ触られるだけで癒されていく・・・
究極の癒しは、臨死時、ONEと一体となることだと言います。
ONEとは宇宙の究極的存在、簡単に言えば神様かな。
体験者の話によると、このときの一体感は至福としか言いようがなく、あらゆる言語表現を拒絶するそうな。ボクは体験者じゃないので何とも言えませんが(またそんなことがあるのかどうかも分かりませんが)、少なくともそう証言する人がいるところを見ると、一体感に至福の癒しを感じるのは人間の習性なんだろうなと思うわけ。
個として分断されているのが今生の定めだとすれば、一時的であっても他者との一体感を得させしめる我々の仕事の意義は大きいですよね。
興味本位や金もうけの姿勢を廃せねば罰が当たるというものです。
ただでさえ、業が深くてこんな仕事をしているというのに・・・
小生は施術の際、常にその人と一体化していくことに没入していきます。
それが非常に上手くいくときと、気が散って全然ダメなときがあります。
この違いがどこからくるのか未だに分かっていないのですが、この成否は自分の疲れ具合と効果の違いによって示されますね。
上手く行かないときはやっぱ疲れる・・・効果もイマイチ・・・
解放感がない・・なんとなく身体が詰まった感じがするものです。
稀に没入できたときもこういう感じを受けるときがあります。
そういう場合は受療者の身体が酷く傷んでいるときですね。
(あ~こういうとき、施術者の身体もやられるんだろうなぁ)と思いますね。
施術者は自分なりの解消法を持っていなきゃいかん所以です。
(九)
補瀉(ほしゃ)
補うことと瀉することなのですが、淵源は陰陽理論に遡ります。
結局、歪みの正体とは「不足」と「有余」の二つしかありません。
何が不足し、何が余っているのか・・・・中々概念的に難しいのですが、古来東洋ではこれを「気」と呼んでいました。
有余の気を「邪気」、不足をそのまま「正気不足」と。
もう少し科学的にいえば、細胞の原形質流動の中でゲル化(コリ)したまま固まった状態が有余、つまり邪気充満と言えます。
また同じく原形質流動の中でゾル化したまま力が入らない状態が正気不足です。
前者を「実」と呼び、後者を「虚」と呼ぶのはご存じのとおり。
即ち、虚実補瀉。虚を補し、実を瀉する。
虚実補瀉なくして、鍼術も手技もあり得ないのが東洋医学の基本思想です。
手技は安全ですから、そんなことを考えなくとも、効くことは効くし、少なくともリラクゼーション効果はありますから、特に不都合はなかったのでしょう。
ただ、カイロプラクティックのように鋭い瀉法を主体とする手技体系はリスクがありますので、違う角度から勉強、修練を積まねばなりません。
昔、事故が多かったのは、経験不足もさることながら、瀉を支える補の手技が充分じゃなかった為でしょう。瀉だけで、安全に効果だけを得さしめるには相当な経験が必要かと思います。
たいして東洋的な手技は補が主体となりますから、安全です。しかし、この安全であることに甘え、研鑽を怠ると、如何に強い圧を使おうと単なるボディ・リラクゼーションとなってしまって、治病など及びもつきません。
補と瀉のバランスを如何に取るか、補法に裏付けられた瀉法を如何に使いこなせるかがプロの条件となるのですが、なかなかこのバランスを意識した業者にはお目にかかりません。
麻布に〇〇カイロプラクティックという施術サロンがあります。
ここの前を通りかかると、いつも「満員御礼」の札が掛かっていて、まず「空き」がありませんでした。
最初、疑いましたね。こんな連日フルハウスなんてあんのかな?
もしかして、ここの先生、怠け病に罹って、空いているのに、満員ですとかいって昼寝してんじゃないのか?
(私も時々使った手なんで、他人も使うんじゃないかって思ったわけ)
どんな先生だか、会ったこともありませんし、もちろん施術を受けたこともないのですが、 よくここの前を通ったので、気になりましたね。
で、ネットの口コミ情報を知る機会があって、書き込みを熟読していたら、人気の謎が解けました。
本格的なカイロの先生なのですが、我々がいうところの補瀉の技術を使っているようです。つまり、矯正術という強い瀉法(カイロですから本格的なものでしょう)とオイルマッサ系の補法(推圧も取り入れているみたい)のコンビネーションがどうも絶妙のようなんです。
一度かかりたかったのですが、なにせ、いつも満員御礼ですし、そうこうしているうちにその機会のないまま旭川へ帰る羽目になってしまって・・・残念!
補瀉の技術っていうのは、同じようなことをやっているように見えても微妙なコンビネーションによって、効果がまるで違ってきます。
東洋系の手技を標榜している施術家が補瀉を置き去りにし、西洋系の手技法家がしっかり補瀉するっていうのも面白い現象ですが(補瀉という言葉は使わないにしても)、おそらくこれからのトレンドになっていくでしょう、っていうかそうしないと生き残れないと思います。
もちろん、カイロ系の人がリラクゼーションメニューを加えれば良いというものではないし、東洋系手技の人が矯正術のメニューを取り入れれば良いというものでもありません。
自身の中で充分練り、融合させて、一つのコンビネーション系の技へと進化させて始めて使い物になるのだと思いますよ。
麻布の先生はそれを成功させているのだと思いますね。
(十)
瀉法(しゃほう)
作用の穏やかな補法だけですと、確かに安全ではあります。また、長い目でみると、漢方の上薬のような効能があり、延命長寿に資することは間違いありません。
しかし、作用が穏やかである分、長~い治療期間がかかったりもして、プロはそれをクライアントに強要しづらいものではありますね。
また、結果として長くかかったしても、確かな改善感を与えねば、通院してくれないでしょう。
アマチュアならいざ知らず、プロを名乗る以上、瀉法は必要不可欠なものである理由の一つかと思いますが、如何でしょうか。
さて、東洋系の手技法家が必ず使う手法が推圧(押圧)でしょう。
親指であったり、手掌であったり、肘であったりと使う部位は問いません。
実はこの推圧の性格は面白くて、基本的には補法なのですが、圧の加減で瀉法にもなるのです。
そのような性格から、コリを押し潰すというイメージが強かったのか、瀉法に分類されてしまいました。按法にも関わらず瀉法とは・・・二百年、増永師を除いて誰も疑問を呈しなかったのですから、如何に東洋的手技が停滞していたかが分かります。
按が瀉法なら、摩が補法ということになります。
理由は摩法が撫でる、さするという行為になることから優しく補うというイメージが湧いたものでしょう。
ところが摩は磨くが原義。さするどころじゃなく、磨いてすり減らすくらいのことを表しているのですから、どこが補法じゃ、と突っ込みたくなるわけです。
結局、按摩の「按」と「摩」の補瀉の取り違いから、こんにちの手技の慰安化に至っているわけで、実に数百年の年季が入っているのです。いくら増永師が論を尽くしてそれを指摘してもそう簡単には改まりません。
按法(推圧)を瀉法と認識した結果、何が起きるか・・・
圧が強めになります。それで「有余」を取り去ろうとするのですから当然です。
強い圧をかけ続けると施術者が疲弊してしまいますから、それを避けるため常に動揺したリズムで行うことになるわけでして、これがマッサ-ジハウスでよく見られる手技一般の形。
この結果何が起きたか?
熟練した施術者がやれば受療者がとても気持ちよく感じます。
コリも取れます・・・しかし、それだけです。治病など及びもつきません。
これで見事に手技が慰安化したわけです。
やがて、受療者も刺激になれていきます。するともっと強い圧を要求します。施術者はその要求に応えようとします。結果、施術者は身体を守ろうとしてさらに動揺したリズムで行うようになります。
しかし、それではコリの寛快率が良くないということで、小さな持続圧を入れるようになります(タメを作る、と言うようですが)。ところが指はそれに耐えらるものではありません。ここに施術者の慢性的親指イタイイタイ病が発症することになるわけでして、引退するまで治りません。
推圧を瀉法として捉えたばっかりに起きる現象でして、たった一つの取り違いがこんにちの手技業界にいかに影響を与えているか・・・恐ろしいほどです。
もちろん、ボクとて推圧を瀉法として使うことはあります。しかし、瀉法をそれだけに求めると述べてきたようなことになるわけです。
では本来の瀉法である摩法はどのようなものか?
磨くが原義と述べましたが、磨くという行為そのものよりも、磨く行為には何が伴うか、を考えれば分かると思います。
激しい動きが伴うわけですよ。故に、西洋手技のスラストやアジャストはまさに摩法であり、純粋な瀉法です。
別に関節を鳴らさなければならないわけではありませんが、受療者の身体を他律的に動かすというのが本来の瀉法です。
ですから、経絡伸展、ストレッチ、揺らす、四肢を動かす、首を動かす・・etcこれらはすべて瀉法であり、補法とのバランスを考えながらコンビネーション化すべき技法群と言えるのです。
このような視点からみれば、日本化した按摩よりもタイに伝わるタイ古式マッサのほうがはるかに按摩の原型を残しており、参考になることが多いものです。
いつぞやのブログで、増永師の施術を指圧というよりもタイ古式マッサに似ていると評したことがありますが(もちろん本質は違いますが)、増永師もまた古(いにしえ)の按摩の原理に忠実な故でもあるのです。
タイマッサの残念なところは、すでに形骸化が始まっており、商売に目ざとい業者が、按摩業法逃れにコアな部分をすっぽり落としてリラクゼーション化してしまっていることです。
タイマッサもそこに魂を入れれば、強力な療法の一つになるでしょうに・・・・・現状では期待できません。
手技は真似が容易なので、進化と退化が同時に進行していくのは面白いところですね。
ともあれ、虚実補瀉という考え方を意識するとしないに関わらず、その施術体系の中に組み入れていかないと、いくら理屈が立派でも大したものにはならないのです。
一つ一つの技はありふれていて、地味かもしれませんが、これがコンビネーションとして機能したとき、総和を遥かに超える効能が生まれてきます。
「局所的な名人芸よりも、全身的なアプローチの総和」がモノを言う病態、証は確かにあって、先人の教えというのはありがたいものだと思います。
(十一)
補法(ほほう)
「指圧の本態は瀉法である」(増永師)
これは本来、補であるべき親指押圧を瀉として使い過ぎている現状に対する批判として述べたものです。
「実按ずべからず・・・・・虚之を按ずべし」(黄帝内経)
按ずるとは正しく、押圧のことであって、虚に対して押圧を加えなさい、ということは、まさに押圧が補法として想定されているものであることは明白です。
現実問題、瀉的要素を全く持たせないで押圧することはできませんが、押圧の本来の役割を時々思い出すことは無益ではありません。
補法という語感のイメージから、ヤワな圧を想像してしまいがちですが、按ずるとは切することであって、深く食い入れることですから、底に達していないければなりません。
この感覚から瀉法と勘違いしてきた歴史があるのです。ですから、技法の外形上から、瀉であるか補であるかの区別はできないのです。
生来、手の温かい人が、「薬手」の持ち主として喜ばれたのは、手を当てるだけで補の効果が強かったからにほかなりません。
これだけ、食べ物に不自由しない時代にも関わらず、低体温時代と言われている現状では益々薬手の需要はあるでしょうね(需要は昔以上かもしれません)。
温かさと共に圧を送ると、その補的効果は想像以上で、古来より「温もり」を物理的温度以上の意味合いを持たせているのがよく分かります。
強い炎症時に温めは禁忌となりますが、手の温もりだけはどのような場合でも悪化させることはないのです。組織の再生を促す何かが手から出ているのでしょう。
さて、最近トミに感じるのですが、冷えて凝り固まっている症例が多くなっています。10年前より確実に多い。地球が温暖化しているにも関わらず、人の身体は冷え続けています。
私の手はかなり温かい部類に属していて、「薬手」とまでは行かないまでもそれに近いのではないかと思っていました。レイノー病(極端な冷え)の人などは手を当てられるだけで治っていくような気がすると言ったものです。
その私にして、温かさの供給が追いつかない・・・どんどん熱を取られてこちらが冷えていくようです。こりゃこっちが病気になっちゃうか・・・
多いんです・・・こういう人が。
補法を持ち出すまでもなく、温圧を送る重要性は熟知していますから、ちょっと困った時代ですね。
(十二)
虚実
補瀉に触れて、虚実に触れないわけにはいきませんね。
なんせ、「虚実補瀉」という一つの成句なのですから。
施術者のほとんどは虚実がよく分からないと言います。
理屈的に「実」は凸的で張って固い感じ。「虚」は凹的で力がない感じ。
これはイメージが湧くでしょう。
ところが理屈どおりにいかないことも多くて、このように物理的な感触を全く無視して虚実がある場合もあります。むしろ、こちらの方が多いくらいですから、よく分からないと嘆くのは当然なんです。
すると、虚実などは単なる概念であって、実態じゃないんじゃないか!と虚実補瀉を無視する施術者も出てくる。
まあ、それも良いでしょう。自分の人生なんだから、あらゆるものは自分で選択しなきゃいけません。
虚実は施術者が分からないと嘆くだけで、ホントは受療者の方がよ~く分かっているのです。
なんでって?
おなじみの感覚で容易に分かる・・・
虚を按圧されると、深い響きがおきます。身体の深部に到達するような。
これに対して、実への押圧はよく響きはするものの、表面を走るような浅い響きです。
受療者はこの深部へ到達するような深い響きを感じることによって、安心し、一種の解脱感を得るわけでして、気の早い人は速攻で爆睡します。
単に気持ち良くて寝てしまうのか、経絡反応によって寝入ってしまうのかは、実にこの違いがあるのです。
施術者も自分が疲れているときに、やはり上手な施術者の施術を受けるべきでしょうね。これを増永師は臨床研究と呼んで重視したのも頷けます。
受けてみると、確かに基本手技の中で、深い響きが起きる部位があることが分かります。
また、その部位を押されているうちに、響きが消えていくこともあるでしょう。これは虚が満足し、虚が虚でなくなった証拠です。容易に消えない場合もありますが、これは頑固な虚です。
まずこうした体験をすることなんです。
すると色んなことが分かってきます。
同じ部位なのに、押し方によって、響きの感触が違うなぁ~。
おおーこれに気づいたら、エライ!
そう!虚へのアプローチは部位だけでなく、施術の仕方、もっといえば施術者の心の有り様によって、成否が分かれてくる・・・・何度も言ってますね。
受け売りで言っているわけではありません。自分の身体で体験していますからね。
施術者として感じる前に受け手として感じることです。
その感覚が分かったら、基本手技の中で、そういう虚の部位が必ずあるはずだという確信のもとに施術を行うわけ。それがどこにあるか分からないから、良いのです。
虚がそう簡単に分からないのは天の計らいなんです。
分かっちまったら全編に渡っての真剣施術の機会が失われるじゃないですか。
己を虚しくして、気負うこともなく、臆することもなく、ただひたすら施術していく・・・
すると、施術者自身がとても気持ちよく、一体感に包まれるときがあるものです。
トランス状態というのは受け手だけに起きるものではありません。施術者もまた、そのような状態になるわけです。両者癒されるという言い方もできますね。
本当のことを言うと、虚とは施術者がこのような状態で押したその場所すべてのことをいうのです。
結局「証を診る(虚が分かる)のは二義的なものであって、いかに無心に施術をするか・・」と増永師がいうそこへ還っていくわけ。どんなベテランも名人もそこへ回帰していくわけです。
虚を探ろうとしても、絶対無理です。姿を現しません。虚は弱点でもあり、恥部でもありますから、鋭い目付きでこれを探ろうとすれば、隠そうとするのは当然じゃないですか。
待ちの姿勢という意味もそういうところから来ています。
大事なことは、施術を行っていく中で必ず虚は押さえているという確信。で、そのときに、いい加減な気持ちでたまたまあったなら、虚の反応は弱く、当然効果も薄い。
そういうことを無数に経験していくことです。
なるほど~そうか~そういうことか~自分自身で得心することができれば、一気に段階は進みます。しかし自分で得心することですからねぇ、教えようがないんだ。
小生だって失敗と試行錯誤の連続でしたから。今だって失敗します。7日前の一施術が大失敗でした。新しい技術を取り入れようとして、基本的な心の有り様を忘てしまって。
新しい技術を入れるのはもちろん悪いことではありませんが、それに気を取られてしまっては本末転倒ですね。そういう基本的な失敗を今でもします。
失敗が失敗だと分かるだけまだ昔よりマシですけど。昔は心の有り様によって施術効果に違いがあるようには思えませんでした。単なる気のせいじゃないの!みたいな。
今は如実に分かります。
気が急いているとき、功名心に駆られているとき、いずれも虚の反応率は低い。虚を押さえているにも関わらず。
治そうという気持ちもダメ。これは無意識の抵抗に遭います。「我」が入るからでしょうね。
そんなことで、虚というのは必ず、基本施術の中で按圧するものなので、むしろ施術する態度の方が大事なのです。
虚が分からないというのは、虚を探しているということです。なんども言いますが、虚は探しても見つからない。探す、探る、調べる・・・これらのキーワードでは無理。
0個のリンゴを探して「いや~0個のリンゴが見当たらないよ~。どうして0個のリンゴがないんだろ!眼が悪いのかなぁ?0個のリンゴはどこいった?」って言っているようなものです。
0個のリンゴというのは見つけるものじゃなくて、認識するものでしょ。
認識というのは、概念的に把握するものですから、探したって見つかるわけがない。
経絡というのは治癒システムのことだと思います。最近、ほんとにそういう気がする・・・・
治癒システムを作動させるのに四苦八苦しているのが施術者の実態だと思いますね。
経絡反応とは治癒システムの発動のことだと再定義すれば、心の有り様が変わってくると思いますね。このシステムの特徴をよく掴んでおけば、あとは勝手にやってくれるわけだ。
こんな楽なことはないにも関わわず、あ~でもない、こうでもないと余計なことばかり考えて治癒機序を混乱させているのが現状でしょうね。
素直になれば良いのですよ。気負うことなく、臆することなく。
(それが一番難しいんだけどね)
ある種の初心者が驚くべき治療成果をあげることができたりするのは、治してしてやろうという功名心もなければ、治らなかったどうしようという不安もなく、言われたとおり素直に施術するからに他なりません。
それが少し経験を積んで、知恵がついてくると、欲が出てきたりして、かえって治療実績が悪くなってしまいます。悪くなるまでいかないにしても、伸び悩む。そこで技法遍歴が始まる。プロセスとして悪いことじゃありません、技法は多い方が良いし、いつか気がつく。しかし、自分には向かないと思って諦めてしまうのはあまりに惜しい。素直になるだけで良いのに。
気負うことなく
臆することなく
功名心もなく
不安もなく
ただ一押しに誠を込めて
これが本当の意味で出来たら、後はなんにも要りません。
大施術家だ。
(十三)
手当て
「手の妙用」という一風変わった本を読んだことがあります。
もちろん、絶版でして、手に入れるのは相当苦労するでしょうね。
この本の著者は治療家でも施術家でもなく(たしか教員だったような)、市井の人。
しかし、生まれつきの感性か、自分でも他人でも悪いところを触っていると、掌にジンジンとした痛みを感じ、その部位が悪ければ悪いほど、その度合は強まるのだそう。
時として、痛くて我慢できないほどの場合もあったり、手が勝手に飛び跳ねてしまうこともあるといいます。
様々な難病者に乞われるまま手当ての業を行ってきて、その集大成的な著作でした。極めて真面目な内容ですから、考えるところが大でしたね。
まず、手当ては大変に威力がある治療法であるということ。
ただし、30分や一時間じゃ全然ダメで、最低でも2時間は手を当て続けねばならないそうな。(できれば一日中!)
手当てをして、ジンジンと感じる能力は個人差があるものの、手当て自体のヒーリング能力に個人差はないといいます(無数の実験をしたらしい)
これはですね、小生、なるほどと思いますよ。
例えば、アプレジャー博士が提唱したクラニアル・マニ(クレニオ)は数グラムタッチという極めて手当てに近い圧力で行います。
しかも、博士自身が一人の患者に5時間かけて施術を行ったという記録があるくらい、じっくりと時間をかける。
その結果、現代医学でも他の療法でも救いようのなかった患者が治ったりしてます。
このクラニアル療法を知ったとき、基本的には手当て療法なんだな、と違和感なくスンナリ入ってきました。「手の妙用」を読んでいたせいなんでしょうね。
とにかく、両者の治療実績は凄いものがあって、共通点もたくさんありました。
また、東洋医学の格言に「貴ぶところを待ちて、日暮るるを知らず」というものがあります。増永師が好んで引用する格言です。
以上、バラバラにあるエピソードですが、一つの真理を指し示していることは間違いありますまい。すなわち、本来手技というのは相当に時間がかかるということ。
しかし、経済行為とは時間単位のことですから、そんな無制限に時間をかけて行うわけには行きませんよね。昔は現代より、ノンビリしていたとは言え、さすがに医者はそんな悠長には構えていられなかったでしょう。
結局、短時間で済む瀉法が考案され、その極限はカイロなどの西洋手技になると思います。15分くらいで済む場合もありますから。これはこれで手技法界に多大な貢献を為したわけですので、肯定するにヤブサカではありません。
しかし、小生の志向性というのはどうしても手当て系なんですよね。スラストのような強い瀉法も使いますけど、やっぱじっくり系なんだな。
ボクが考案した「体内浄化プログラム」はその片鱗が伺えて、実に正味2時間半に及ぶ施術です。
でもこれとて、ぎりぎりのところで妥協しているわけでして、ホントは4時間くらいかけたいときもあるんです。
クライアントの身体を触って(いや~ちょっと!すごいことになってるなぁ、こりゃ)と思うことがありますでしょ。
2時間半かけてなんとかならないものが4時間かけてなんとかなるという保証があるのか!という反論もあるでしょう。
しかし、ロングコースの臨床を豊富に持ってますと、最後の10分で一気にガガーッと緩むことがあるということを知っています。
そして緩んだあとが勝負なんです。前に書いてますが、緩ませることで目的を達成したことにはならないわけ。これが単なるリラクゼーションとは違うわけですよ。
時間がかかるのは必然なのですよ。