リフレパシー随想

棘上筋(きょくじょうきん)

 棘上筋は見落としやすい筋です。

 この道、ン十年のベテランでも見落す、というか考慮さえしたことがないというのが実態ではないでしょうか

 なぜなら、棘下筋は直感的に経験的に手がいきやすいのですが、棘上筋ばかりは学習しないと認識できませんし、ましてや施術などできる部位ではありません。つまりそのキャリアの中で学習する機会がなかったからでしょう。

 なにせ、分厚い僧帽筋に覆われていて、普通の施術体系の中では届かない位置にあるわけです。

 ところが、ちょっとしたコツを知ると、さほどアプローチが難しいわけではないのです。知識は力なり!を実感させてくれる筋肉ではあります。

 棘上筋は石灰化しやすいランキング、ナンバーワンの筋ですから、五十肩の原因の一つであることは間違いないところです。

 しかし、そればかりではなく、肘やその周辺の痛みの原因となることもあります。

 原因不明の当該部位の不都合が実は棘上筋が犯人だったということも十分に考えられますから、そういう意味でも盲点的な筋肉だと言えるでしょう。

 また、この筋は胃経や膀胱経との関連が深く、更年期に発症しやすい不具合の原因ともなります。(胃経は婦人科系、膀胱経は自律神経系の支配が強いですから)

 小生がみるところでは、この筋肉の処置ができるかどうかが、整体師のステイタスバロメーターになるのではないかと・・・密かに思っているのですが、おそらくそれが出来る整体師諸氏には同意して頂けるものと思います。

 流儀は違っても極めて少数、ここの処置を完璧に行える整体師はいます。

 そういう人に出会うと流派の違いを超えて敬意を表したくなりますね、(お主、中々できるな・・・)と。

 今のところ極めて少数なのが残念なところですが。

 そういう意味でも、もっと注目されてしかるべき筋肉ではあります。

棘下筋と小腸経

棘下筋を意識するのは五十肩の時くらいですが、回旋筋腱板(ローテーターカフ群)の一つですから、仮に五十肩の症状が出ていなくとも、酷使されトリガー・ポイントが形成されやすい筋肉ではありますね。
(成人は大概あると思います)

この棘下筋と関係が一番深い経絡は小腸経です。
増永経絡図表をお持ちの方は一目瞭然かと思いますが。まさに肩甲骨の真上を走行しているわけです。

小腸経の働きは“心”を補佐して血流支配の一端を担っているのと同時に、精神的には強いショックやトラウマなどに反応しやすく、こころが弱っても小腸経の異常として現れてきます。

またこの小腸経は横首から顎関節かけて走行し、迷走神経や奥歯、また耳の問題として現れることもあります。

腰の部分では腰椎の一番、二番、または起立筋、腰方形筋とも密接に関連しており、これらが原因で殿部の痛みや仙骨部の痛みを起こすこともあります。

経絡に上下関係はありませんが、実務上、異常が現れやすい経絡はこの小腸経が大腸経の次くらいに多いのではないでしょうか。

漢方では瘀血の証でよく出る異常です。

さて、五十肩の場合、この棘下筋を外して治療は考えられないのですが、それはとりもなおさず、五十肩という病態が、小腸経の強い関与を示唆しているわけで、その根底には血流の問題や心(こころ)の問題、臓器としての心臓の問題もまたそこに関与していると言えないこともありません。

個人個人によってその症状として出る部位が違うわけですが、五十肩、耳鳴り、顎関節症、腰痛、殿部痛、仙骨痛などの共通項として小腸経がキーワードとなることが多いということを理解しておいたほうが良いでしょう。

外側翼突筋との関連も深いことから、線維筋痛症という病態にも深く関与している可能性もあります。

この病気の発症は強い精神的なショックから起きる場合が多いことからも、この説の正しさを裏付けているのはないでしょうか。

一見無関係な病態でも経絡という一つの見方をそこに入れると、鮮やかにその関連性が浮かび上がってくるわけですね。

そうすると、トリガー・ポイントだけのアプローチではなく、全身的な協力が必要だということが分かってくるわけです。

つまり施術とは、そこに現れた症状からその人自体の歴史や傾向性を知るということにも繋がるわけで、ただ施術すれば良いというものでもないわけです。

筋肉派と経絡派はまるで敵対するかのような傾向がありますが、決してそうではなくて、筋肉のTPからも経絡異常を知ることができますし、経絡異常からも筋肉TPの見当をつけることもできるのです。

部位をピンポイントで特定するにはTP体系が役に立ちますし、そもそもその本質はどこにあったのか・・・これを知るには経絡説が非常に役立つわけです。

クライアントさんに言わないケースもたくさんありますが、その症状からその人の人生においてどのような問題があったか、というのが分かります。

具体的な出来事はもちろん分かりませんけれども、傾向性ですよね。どのように過ごしてきたか・・というライフスタイルやどのような思いをもって生きてきたか、という、まさに”傾向性”です。

整体師は占い師ではありませんから、そこら辺を突っ込んで話していくのはその人の感情生活に巻き込まれる可能性もあるわけで、それは避けねばなりません。

しかし、機械ではなく人間を相手にする以上、そこに“理解”もしくは“共感”という作業がないと真の癒しにはならないということも確かです。

直接口には出さなくとも、その共感の中で施術をしてあげることが重要ではないでしょうか。

それには別に超能力も霊能力も要りません。
多少の筋肉的、経絡的知識と深い思いやりだけです。

名医と並医とヤブ

上工、十に九を
 中工、八を
  下工、六を全うす。

難経(なんぎょう)という鍼灸の古典に出てくる一節です。

意味は
名医は10人の患者のうち9人までを治すことができる。
並みの医者なら8人であり、ヤブ医者は6人である。

治癒率でいうと名医は90%。並医は80%、ヤブ医者なら60%ということになりますね。

深読みすると色んな意味が汲み取れて面白いものです。

まず名医の十に九・・は当然でしょうか。
どんな名医でも百%の治癒率なんてことはあり得ません。
患者のうちの10%くらいはいかに適切な治療をしても治し得ないでしょう。
これは常識として分かります。

次の一節(中工、八を
並みの医者に8割の改善率を与えていますね。

名医と治癒率では10%しか変わりません。
名医と並医の実力の差が、10%しか違わないなんてあり得ないにも関わらず。
名医とは天賦の才と文字通り並外れた努力によってようやく達成できるレベルであって、それが故に「名医」なわけです。

疑問に思いませんか?

実はこのこと自体が東洋医学の特長をよく表しているものなのです。

鍼術の方法論というのは経絡、或いは経穴を探り、いかにその人(患者)にとって適切なツボを選ぶことができるか、ということですよね。

名医は正確に正解のツボを選ぶことができるわけです。

並医は正確かつ適切なツボの選定という観点からいうと、おそらく名医の半分にも満たないでしょう。

それでも、8割の改善率になる・・・
このことで何を言いたいのか?ということを行間から読まねばなりません。

人の身体には自然治癒力というものが備わっています。
この場合は、外的刺激を治癒のキッカケ、もしくはパワーに転換する力のことです。
もともと身体に備わっている「能力」と呼んだほうが良いかもしれません。

ですから、ツボを半分しか当てられない並医でも、患者の身体のほうが勝手に治癒パワーに変換してくれて、治病に至るというわけです。

8割の患者を治せるであれば、多大な労力をかけて、ほとんど自分の全人生を捧げてまで研鑽して「名医」になり、わずか10%ほどの治癒率を向上させなくとも良いのではないか・・・という疑問が湧いてきませんか。

患者というのは統計的に処理された数値ではありません。
その人にとってはたった一つしかない、かけがえのない「命」を持った存在です。
その「命」を十人のうち一人でも余計に救える技量というのは「命」が何物にも代え難い貴重なものであれば、何物にも代え難い尊い行為になるのは当然のことですよね。

ですから、すべからく医者を目指す者は「名医」を目指すべきであって、結果として才なく名医足り得なくとも、その努力をした者に天は8割の改善を与えるように取り計らっているわけだと・・・このように解釈せねばなりません。

中工の意味の解釈になるのですが、順当に考えれば小生が文中に表現してきた「並の医者」という意味になります。しかし、相当な訓練をし、情熱を持っていなければ8割方の患者の治癒力を引っ張り出すことなど不可能でしょう。

名医を目指し、本当に一生懸命努力してきた・・・が・・才一歩及ばず・・・というのが中工の真の姿ではないかな、と思うわけです。
実力に相当の差があるにもかかわらず、治癒率が一割しか違わないのはまさに天の計らいだと思いますよ。

さて下工。
これをヤブ医者と訳しました。
ツボがほとんど当たらない医者。そもそも医者をやることが間違っている医者。
向いてない奴、というニュアンスになりますよね。

これにおいてさえ、十のうち六を全うする、わけですよ。
これこそ、先に述べてある刺激転換能力のお陰としか言いようがありません。

鍼術は素人がやると危険ですから、下工といえども、その扱いくらいは知っていなければなりません。
しかし、これを手技法(徒手療法)と考えればどうでしょうか?

6割はちょっとオーバーな表現かと思いますが、まあ半分近くは改善していくことでしょう。
つまり、さほど習熟していなくとも、それなりに実績は出せるということです。

手技は安全ですし、癒し効果もあるので、鍼ほど取り扱いに注意しなくても良いわけです。ですから、継続して勉強していく動機を持ちづらいんですね。

だからある意味、手技業界は下工だらけっていうか、下工の集まりみたいな・・集団下工だ・・

改善率が全体で半分もあれば、口の上手い人なら、充分にやっていけるわけですし。
また面白いことに、ホントに治す能力はないのに「上手な施術者」というのが存在し得るのが手技の世界なのですよ。

鍼や漢方は上手=治癒率になりますけど、手技は別の要素が含まりますから。
即ち、「癒し」です。

癒しという分野では手技に優るものはないでしょう。
しかし、治病においても本来、鍼灸や漢方薬に決して劣るものではありません。

癒し効果という持ち味を生かしつつ、真の実力を発揮させれば、手技は集団下工どころか、上工に匹敵する集まりになれるはずだと、ず~と思ってきました。

それにはやはり継続した勉強が必要ですから、三水会を開催し続けているわけです。

三水会は当然、上工を目指す集団です。
そこを目指しつつ、結果、中工に終わっても良いのです。
その努力をした者に天は八割を保証しているのですから。
下工だけにはならないでおきましょう。

※十のうち九、八、六という具体的数字は正確なガチ数値ではありません。
古典のシンボリックな表現の一つです。ましてや歪みが深く潜行している現代においてはこの数値より全体に下がることは言うまでもありません。

虚実補瀉とトリガーポイント

黄帝内経-調経論

「実者外堅充満 不可按 按之則痛」
「虚者ろう(耳を三つ書く)辟気不足 之按気足以温 則快然而不痛」

虚実補瀉について論じた最古の記述です。
虚実補瀉の概念そのものと言っていいかも知れません。

意訳しますと、
「実」は外側が堅く、中身もパンパンに張っている。これを按じてはいけない。もしこれを按ずればかえって痛みが増すぞ。

「虚」はろうへき(耳を三つ書いて“ろう”と読ませる)-シワがよって力のない状態で、気が不足している。之を按ずれば気が満ち足りて来て、温まってくる。するとスカッと痛みがなくなるものだ

増永師はこれを読んで悩んでしまった、と書いておられる。
小生はその書いたものを読んで悩んでしまいました。

中国医学の根底には陰陽思想があります。

陰陽を経絡に当てはめたとき、虚実と表現するわけで、「実」は目立ち分かりやすい「陽」の性質なわけです。

「虚」は陰にかくれて見つけづらく、分かりづらい文字通り「陰」の性質なわけです。

「実」は誰にでも分かる、ということは本人にも分かることですから、症状を持つ部位(痛む部位)であって、確かにその部分を深く按ずれば、かえって痛みが増すのは施術者なら経験があるはずです。

炎症のある部位が禁忌となる所以でもありますね。

対して「虚」は本人も自覚できない真の原因となっている部位のこと。
「犯罪の陰に女あり」という比喩を増永師は用いていましたが、まさに、まさか!の黒幕みたいな存在で、だれもそこに原因があるとは思わない部位のことです。

つまり、我々がごく普通に言っている「症状のある部位と原因の部位は必ずしも一致するとは限らないよ」という言い方の原点になっている考え方なんですね。

虚実補瀉の特に虚が分からない・・「虚のコリ」が分からない・・というのは「実」は外堅充満、「虚」はろう辟(シワがよって気不足)という語句に惑わされているからに他なりません。
陰陽論の基本に立ち返ったとき、虚実の真の意味が取れるのであって、字面を追っても理解できないでしょう。

簡単にいうと症状の原因となっている部位なのですから、少なくともコリや痛みの原因となっているトリガーポイントは「虚」であり、それが原因で痛みを得てしまっている部位は「実」なのです。これでは実をいくら按じても、効果がないばかりか、かえって痛みが増すのは道理なわけでして、古典の記述は正しいと分かるのです。

「外堅充満」や「ろう辟」はシンボリックな表現方法であって、古典はよくこのようなシンボリックな表現方法を採ります。思想背景にまで踏み込んでいかないとホントの意味は分かりません。

クライアントが施術後に休息することの意義

 さて、私自身、まだメインとは言えない施術の仕方があります。

 それは施術後、その場でしばらく休んでもらうということ。
 増永師のスタイルはほとんど、施術後すぐには起こさず、その場で休んでもらうものだったと言います。

 実証の場合はすぐに起こしても構わないと思いますが、虚証の場合はやはり術後、休んでもらったほうが良いんですね。

 施術後は期せずして、原始感覚が優位になり、労せず治癒システムが働いている環境ですから、その状態のまま治癒システムを稼働させておくべきなんです。

 ところが、経済行為というのは時間単位でございますからして、自分の労力を使わないにしても、スペースを占め続けるというのはそれだけコストがかかってくるということになります。

 またクライアントにしても、この忙しい現代社会、充分に時間をとって通院することもママならない人が多くいます。
 (だから、クイックマッサなどが大流行したのでしょうね)

 カイロプラクティックのような特殊な施術は別にしても、東洋的手技はある余裕の中で施療し、かつ受療しないと効果が半減する場合があるわけです。

 これは一重に治癒システムが発動し、それが交感緊張に邪魔されることなく、完全に身体の中に染み込んでいかなきゃイカンということに尽きるのです。
 そういう意味で術後の休息は虚証タイプには必要欠くべからずものと思いますね。

 治療行為と経済行為との兼ね合いをどうするか・・・ここらへんが各自工夫の余地があるでしょう。

 こちらに来て、股関節に問題を抱えた人を施術しました。もう10年以上の症状で、日常的に常に痛いと・・・こういう愁訴なんです。

 股関節の問題は得意分野ですから、基本施術に加え、入念に股関節操作&トリガーポイント処理を行ったのはいうまでもありません。
 施術の最中から、気持ち良くなったのか、高鼾で寝ておりました。
 施術後も一向に起きようとはしないので、なにか理由があるのだろうと、そのまま寝かせておきました。
 するとなんと!寝たりも寝たり!3時間くらいぐっすりと寝ておりましたね。

 起きて、しばらくすると、「あらっ全然痛くない!」と叫ぶではありませんか。
見ると、股関節の歪みも正常になっています。
ここまで鮮やかに矯正されたというケースはあまり思い出せません。

 寝ている3時間の間に身体の自己調整力が働いて、すっかり正常になったようなのです。
 施術+休息の威力を思い知らされましたねぇ。

 東洋的な施術というのは本来こういうものなんだなと、あらためて認識した次第。

 全部の人に必要はないにしても、術後、値千金の時間を無駄にしているかもしれないとインプットしておくことは重要でしょう。

リフレパシー

(一) 

「足証整体」というネーミングを考え出したとき、我ながら、なかなか良い出来だわい!と自己満足しておりました。
(漢方的に非常に意味がある)

しかし、足利証券の略?なんて言われてガックリ・・・
(証券会社が整体までやるようになったかぁ、なんて思う人もいたりしてね)

そこで、もう一つ、ちょと外国風な名前も必要かな、と考えたのがリフレパシーでございます。

綴りで言えばreflepathyですから、リフレッシュ(refresh)ではなくリフレックス(reflex)の意。つまりリフレクソロジーのリフレなんです。どっちでも良かったんですが、どんな方法論であっても刺激である以上、広義の意味での「反射」は付き物。そんなノリで綴りを決定し、こんにちに至っているわけです。
完全に私の造語ですから、そんな言葉は他にありません。

さてさて、最近はこのリフレパシーという言葉を使うことが多くなりました。
理由は様々あります。

第一に足証整体・明生館とか、伝統医学手技法研究会とか、私が考える名前というのは硬い響きがありますよね。マニアック過ぎるというのか・・・

しかしリフレパシーなら柔らかい感じがするでしょ。得たいの知れない響きはあるにしてもですよ。ヘタするとヘナチョコ整体っぽい感じもしますけど、ガチガチよっか良いかなと。 ようはネーミングっていうのは聞き慣れるかどうかなんですよね。

あと最大の要因は肩書き・・・・
「肩書き」っていうのは普通、そのサロンを主宰しているなら「主宰」ですし、塾なら「塾長」だし、院長でも学院長でも良いわけだ。

ただ、それって、その人の立場を表しているだけで、何が出来る人なのか、というものではありませんな。

そこで整体師とかリフレクソロジストとかいう肩書きもあるんですが、これはありふれていて面白くない!流儀を表すものじゃないしね。

一度使ってみたかった肩書きに~パスというものがあります。
パッシブルが原義でしょうから、「~が出来るとか」「~の能力がある」という意味なんでしょうね。

そこで「オステオパス」なんていう言い方が出てくるわけ。
直訳すれば、「オステオパシーの技術体系を使いこなす能力のある人」くらいの意味でしょうね。正式な資格名称です。(日本では商標登録されていて、本場でこの資格を取得してもこの民間団体に所属しないと名乗れない・・・実に変な話になっていますけど)

テレパシーの使い手のことを「テレパス」とも言いますな。

というわけで、リフレパシーの技術体系を使いこなす能力のある者のことを「リフレパス」と呼んでも良いですよね。この肩書きが最近のお気に入りなんです。

「リフレパシーの技術体系を使いこなす能力のある人」即ち「リフレパス」ですが、そもそもリフレパシーの技術体系とその背景にある思想とはなんぞや、ということになります。

定義が必要になりますよね。
一度定義し、なお再定義したりしていますが、頭の中では出来上がっているのですが、中々上手く文章表現できません。要はなんでもありなんですけど、それじゃ流儀になりませんものね。

増永経絡を研究していて、増永師がいうような反応が現れ、驚嘆すること度々なのですが、フルフォード博士の三関節原理のほうがスキッと理解しやすい場合もありますし、まさにその原理が働いているなぁ、と思うことも度々です。

一見すると、なんの関係のない原理のようにも見えますが、底流では共通する原理が働いています。死者には働かない原理、つまり生の原理、即ち、生命力の発露。

流派、流儀問わず、その原理なくして技術体系は成り立ちません。

その大局に立てば、方法論など枝葉末節なことでございましてね。コップの中の争いにしか過ぎません。しかし、方法論によって体系化されているのも事実ですから、それを具現化するためには型も必要になってくる、ということです。
ある程度パターン化しておけば楽ですから。

(二)

リフレパシーを一言で定義するなら・・・やっぱり一言で定義できないものですなぁ。

それでも一言で定義するなら「頭蓋仙骨足底療法」かな。

いずれも「本治」的なものなので、実際の施術は「標治」が優先しますから、必ずしも頭蓋、仙骨、足底に拘りません。とりあえず症状を改善、寛解させるのにはトリガー・ポイントを使うことも多いですし。

本質的な生命力の発露というのは、「生命の座」的存在である脳の活性、その入れ物である頭蓋の動きに関係します。

生命エネルギーの発生は背骨の土台である仙尾骨の働き如何によると思いますし。
つまり、フルフォード博士をはじめ多くのオステオパスが実感してきた経験は真実だと思うのです。

さらに足底は荘子以来、呼吸の要としているのも比喩ではなく、健康というものの本質を突いていると思います。これは私の25年の施術経験からの結論なので、トラスト・ミーとしかいいようがないんだけど、多くの施術者から支持されると自負する次第。

しかし、本治療法をしたからと言って、すぐに症状が改善するわけではないのは「標を先とす」という漢方の格言に明らかなわけです。

ということで個別の固有のアプローチ法が生まれてくる下地があるのです。
それは経絡的に診ても関節を主体に診ても良いのですが、ベストマッチ&ベストポイントをいかに選ぶかということが施術者の腕の見せ所でしょう。

標治的な改善施術をしているうちに、頭蓋の動きが回復したりするのは日常茶飯時なので、特に頭蓋仙骨療法を取り入れなくとも、本質的な改善はできるし、事実、頭へも仙骨へも足底へもアプローチしないで実績を挙げている施術家もいるわけです。

まあ要するに流儀の問題なのですが、そう言ってしまえば元も子もない話になりますよね。だから上手く定義できない・・・

身体に働きかけをするとき、そこには意志も働きます。施術者の「意志」が非常に重要なのはある程度の経験者ならご承知のとおり。

よく「圧が浸透する」っていう表現をしますが、ホントは圧の浸透じゃなく「意志の浸透」って言ったほうが良いくらいでしてね。物理的な刺激だけなら、どんなに上手くやっても最終的には相手の身体を傷つけてしまいます。

安っぽいバイブレーション機器だって、施術者の強力な意志が伴うとき、それは実に効率の良いエネルギー解放装置になることもあり得るのですから。

各技法群は施術者の意志が働くことを前提にして作られているわけで、そういう意味でその人の流儀にはその人の意志がもっとも強力に働きやすいわけです。

「頭蓋仙骨足底療法」と定義した途端、他のどんな流儀の施術家よりもそこに働く意志の大きさは強大になるのは当然ですから、そのことに関する限りはもっとも効率の良い施術をすることができますよね。

カイロプラクティックの中でよくガンステッドの技法群を身に付けた施術家は他を否定する傾向があると言います。否定まではしないものの、ちょっと傲慢かもしれません。難度の高い技を身に付けたという自負があるのでしょう。

しかし、難度の高さとともにこの自負心が効果に大きな影響を与えているような気がするのです。

自信とか自負心とかは難度が高ければ高いほど、より強く持つものですよね。
誰でもできるような技で自負など生まれようがありません。
 
つまり、技の一つ一つに強烈な意志が働くんですね。言葉を変えると、技に気が乗るっていうのか、気が入るっていうのか・・・
ですからガンステッド法に熟練した使い手は瞬間気功の達人に見えるときがあります。

その伝でいけば、自らの流儀を規定するときにその技法群に気が乗るのは当然の話でしょう。その流儀じゃない施術家よりもはるかに上手くできることはこれもまた当然のことです。

人間というのは自らを規定しないと中々上手くなれないように出来ているわけです。
しかし、ある段階ではその規定が障害になったりもするから、人生同様難しいものです。

(三) 

どんな療法でも、全身的な循環は重要視します。

循環の当面の敵はコリですから、何らかの形で本丸施術の前にこのコリを何とかしようとします。

さて、このコリを取る方法は様々です。

日本人が感じやすい肩のコリは肩に力が入ってそれが抜けないのが原因ですから、肩を揉む必要は本来ありません。

力が抜けるように誘導すれば良いわけ。どうしても抜けない人には荒療治ですが、一旦強圧し、身体に力が入る状態を人工的に作り出します。一旦力が入ったのち、抜けやすいのは昔から知られている事実ですからね、この身体特性を利用するわけです。

いずれも肩を対象するわけではなく、安全な足や腕などの施術で肩コリが抜ければベストですね。

私も若いころは肩コリ知らずで、余程でないと、肩周辺に違和感を感じなかったものです。
 
たまたま感じたとしても、肩など揉む必要はなく、足を揉んでくれただけで、スーっと肩コリが抜けたものでした。というわけで、ホントはこんな感じで抜ければそれに越したことはありません。

ところが、そんな程度で抜ける人ばかりではないのはご存知のとおり。
年齢とともに歪みが深くなりますし、復元力が低下します。

そんなんで、肩もまた直接の対象になってしまうのは止むをえませんね。しかし、それが当たり前と考えるのではなく、必要悪くらいの謙虚さが必要です。

ですから、リンパ流なり血流なりの循環を確保するためのコリ解消はある意味、それ自体が目的ではなく、これからやろうとする術式の有効さを高めるためにやるわけです。

特に頭蓋仙骨療法は背骨の際のリンパ流がしっかり確保されていないと、効果が半減しますからね。なぜなら、脳脊髄液とのリンパ交換が成否を握りますから。

故に背骨の際のほぐしが必要といえば必要です。頸椎の際も例外じゃありません。

しかし、これには力が要りますから、フルフォード博士などはパーカッションハンマーと呼ばれたマッサージ機を上手く利用していたわけです。

日本には伝統的に「背押し」という古典的な技があります。あえて技と表記したのは、単に背中を押すだけなんですが、これがまた中々テクニックが要る。

かつて畳の上の土方と揶揄されたくらい指を酷使する作業でして、外国系の施術者には絶対受け入れらないと思いますね。

下手にやると慢性的に指が壊れる原因にもなる技法なのですが、上手くやれば、世界中のどんな技より背中がほぐれるわけ。

残念ながら、日本ではこれを背中をほぐすためだけの目的で行うのだけれども、背筋の循環確保という頭蓋仙骨療法の手段として行えば、相当に有効でしょう。

しかし、日本の伝統的な施術者達は頭蓋仙骨療法の概念すら知らない。
だからコラボレーションする意義がある。

私がこれまでやってこれたのはコラボしたからであって、本式に必ずしも忠実ではないんです。勿論、それはそれで批判はあるでしょうけど、だからこそ、だれにも迷惑をかけないリフレパシーと造語を名乗っているわけですよ。

でも正直な話、日本の伝統的スタイルとのコラボの威力は凄いですよ。
短所同士コラボさせてもそりゃ凄くないけどね。
少なくとも長所と思われる部分を掛け合わせると2乗に比例します。

異文化で育ってきたものですからね。古今東西、こういう掛け合わせは凄いものになるって決まっているのですよ。

じつは、頭蓋仙骨療法は日本の伝統的な手技と相性が良い。
なぜかと考えるならば、適度に遺伝子距離が離れているからですな。
近親憎悪がない。

しっかり押圧する日本的手技とほとんど触るだけの頭蓋療法のどこが相性が良い?と疑念を抱く方は受けてみれば分かります。

(四)

経絡をどう取り入れるか?

実は経験の長い施術者なら、経験則的に経絡にアプローチしています。
経絡というのは、力でぐいぐい押しても、延ばしても反応するものではないのです。

力を入れないで脱力感覚で操作するときのみ、経絡効果が生まれる。
この感覚は別に経絡治療を標榜している施術者だけのものではなく、疲れないで行う身体操作に共通する原則でしょうからね。

筋肉だけ延ばされて、経絡が伸びないなんて現象が物理的にあり得るのか?と科学的思考(?)の持ち主なら疑問に思うところでしょう。

物理的に延ばされるというのと、よく反応するというのは別物です。
経絡は反応させないと意味がないのです。

初心者のうちは効いたと言わせたいばっかりに真っ赤な顔して力押ししようとしますが、労力の割には全然気持ち良くないし、効かないし、身体が傷つくのがオチ。これは経絡効果が0に近いからに他なりません。

経絡が反応する押し方、操作の仕方というものがある。これは流派を問わず、そういう操作の仕方になってくるものです。

施術者の意志にもっともよく反応するのが経絡なのは私の拙い経験で熟知しておりますから、どんな療法家でも究極的にはすべからく経絡治療家と呼んでも差し支えないだろうな、と思う次第です。

身体操作というのは経絡反応を起こさせないと意味がないどころか、長期的には害になると思いますね。

リフレパシーであろうと、オステオパシーであろうと、カイロプラクティックであろうと、筋筋膜治療であろうと、熟練した施術者ならしっかり経絡反応を起こさせています。
これは施術する姿をみるだけで分かる。

ただ、目に見えない、分かりづらい虚にアプローチできるかどうかでしょうね。
これができればほとんど増永先生レベルなんですが、そう簡単ではありません。

そのレベルはしばらく、あるいは一生無理としても、少なくとも、筋肉を意識してコリをほぐそうとか、力みが入るような施術は厳に慎まねばなりません。

そうはいうものの!現実にはちょっとやそっとじゃないコリコリ、ガチガチ人間がいるぞ!そんなヤワなこと言っていては商売にならぬ!とお叱りを受けることもあるでしょう。

ごもっともな話ですし、そういう経験も幾多ありますから、気持ちもよく分かります。
そういう場合は刺激の種類をちょっと変えてみると良いと思いますね。

運動法を加えながら、押圧してみるとか。2種類の異なった刺激を同時に行いますと、そういう刺激にはまず慣れていませんから、相当ガチガチの人でも緩んできます。

押圧だけで、あるいは揉みだけで取ろうとするから、どんどん力が必要になってくる。

要するにコリとは気の残り→ノコリ→コリなのですから、誘導し散らすという考え方が重要なんです。

ある意味、残留思念であって、オカルト的に言えば地縛霊みたいなもんですよ。

地縛霊は冗談ですが、少なくとも自分で呪縛していることは間違いありません。
まあ、コリを取ることをはじめとして、全身の体液循環を良好ならしむることは必須でしょう。

ただ、何回もいいますが、これが目的じゃありません。手段、あくまでも、前段階としての手段だということをお忘れなく。

手段ですから、技法的にこうでなければならんという形式的な決まりはないものです。
しかし、野放図というのもおかしいので、ある程度標準的な形は決めておかねばならないでしょう。

またコリが酷い場合の対処法とか、そういう個別的方法も必要になるでしょうね。

まあ、そんなことで「ウチの流儀は・・・」などとことさら言いたてることもないと思います。

でも現実にはそんな枝葉末節で流儀を立てていたりするのですから、日本人というのはつくづく流派とか派閥が好きな民族なんだなと思いますね。

全身のコリが取れました!
循環がとても良い状態です!
じゃ~ね、お大事に~、またのお越しを!

これじゃ面白くないし、健康ランドで受けるリラクゼーションと変わりません。

ここから何をしたいのか!という明確な目的がないと。
それなくしてカウンセリングもあり得ないしね。
 
ときどき、天才じゃないかと思うくらい揉みほぐす手技が上手い施術者がいます。
こういう人でも開業できないこと度々で、一生サロンを転々とすることになるケースが多いわけです。

逆に小生みたいにさほどほぐす技術が上手いとは言えない施術者でも、ほぐしの先にあるもの-身体の全体図みたいものを掴んでいると、どこで開業してもやっていく自信は出るものでしてね。

個別の手技が上手いかどうかなんて、あるレベル以上になるとあんまり関係なくなります。

まあ、いずれ分かることですけど。

(五)

ところで、話は違いますけど、「奴隷」と「自由市民」の違いって分かりますでしょうか?

貧乏と裕福の違いじゃないのです。

自分の主体的判断で行動できるかどうか?-定義するとこういうことなんです。
これが出来ない人々のことを奴隷と言い、古代社会では大変重宝な存在でもあり、またそういう境遇を蔑まれていたり哀れに思われたり。

あまりにも気の毒なので、古代ローマでは医師と教師に限り、ある年数ローマに住み、貢献した者には市民権を与えるという制度が設けられました(医師や教師が奴隷だったというのも面白い話ですが)
 
市民には兵役の義務やら税金やらで、メリットがなさそうなんですが、さにあらず!
なにせ、自由意思による選択権が与えられる。
職業選択の自由と居住の自由。どういう仕事についてもどこに住んでも良い自由です。
(日本では憲法第22条に定められた基本的人権の一つです)

これがなにより貴重と考えられていたんですね。他人の意志に従わねばならないほど不幸なことはないーこれがのちのヨーロッパ民主主義誕生の背骨となりました。
「人は生まれながらにして自由である」っていう有名なやつ。

余談はともかく、古代ローマでは「なんでオレたちに市民権が与えられない!オレ達の仕事が医者や教師に劣っているとでもいうのか!」と大変憤慨し、あろうことか、奴隷の身分でストライキを起こした職能集団がありました。

古代社会ですから、普通は処刑されると思いますでしょ。ところが時の皇帝は諸般の事情に鑑み、これを許可しました。

その職能集団こそは大浴場で活躍していたマッサージ師達。
この人達がストライキを起こしたら、大変困る。なにせ、ローマ市民の最大の楽しみですからね。仕事が終わって大浴場で一風呂浴び、マッサージを受けるのが・・・

このストライキ問題が長引くと、その矛先は皇帝に向けられます。皇帝といえども市民の人気には異常に気を使ったのがローマの特徴ですから、事態を収拾すべく決断したってわけです。

そこまで、計算していたとすればマッサージ師達のリーダーは相当に頭の切れる奴だったことは間違いありませんね。

ともあれ、めでたくマッサージ師達もある年数頑張れば市民権を得ることが出来るようになったということです。

現代では職業選択の自由は保障されていますし、いつでも好きなときに辞める自由も担保されています。そうい意味では奴隷など一人もいません。

しかし、そうい意味の奴隷はいないにしても、増永師がいう施術者の主体的な意志を行使できている施術者は日本にどれくらいいるか、はなはだ疑問。

顧客の感想だけに頼る施術者は最低とも言っています・・・こんな憎まれ口をきくから、業界で嫌われたんでしょうけど、その心は「それを業となす者は不断の努力と修行によって、自ら判断できる能力を身につけよ」という意味であることは行間を読めば一目瞭然。

ところが実際問題、現場においてこれをやるには不可能の場合が多い。
顧客が「強めに!}といえばそれに従わねばならないし、「首と肩を重点に!」にと言われればそのようにやるしかない。
(これじゃ、奴隷とたいした変わんないなぁ)と思ったものです。
 
ある時期、そのような環境でとにかく数をこなす必要はあります。しかし、いつまでもこんな環境で仕事をしては自らをスポイルしてしまうと思いますね。

古代ローマのマッサージ師がどのような対応で市民達に接していたかは文献が残っておらず皆目分かりませんが、命を賭して市民権獲得に動いた事実を考えれば、顧客の言いなりになっていたとは考えづらい・・・長い間に蓄積された言い伝えや経験則を元に相当に言いたいことを言っていた図式が目に浮かびます。

だからこそ、市民に人気があり、また自分たちの仕事を「医者や教師の仕事に劣るとでもいうのか!」という強烈な自負の言葉として吐き出すことにもなったのでしょう。

してみると、現代の大浴場のマッサージ師達(まあ言葉はどうでも良い)は古代ローマのマッサージ師達よりも気持ちの上では奴隷的ですな。

他人の評価でしか自分を評価できない・・・他人の感想以外に評価基準を持たなくなるというのはまさに奴隷なんです。

強めといわれれば強め、弱めといわれれば弱め、腰といわれれば腰・・etc
これでは何十年経っても進化はある方向にしか向かいません。

言われたところを懇切丁寧に、かゆいところに手が届く・・・技能者の鑑みたいな感じですが、そうではありません。施術者の主体的な判断がないから、一種のロボットですね。

人間はロボットにはなりえませんから、それを奴隷というわけです。

しかし、現代においては奴隷にもなりきれませんから、はすっぱな" 崩れ"みたいになり果てる。どこか手を抜くすべを覚えてくる・・・こうなると、いくら一念発起しても、もう治療家にはなれません。

治療家になることだけが、手技を志す者の目的ではないにしても、なんとなく寂しいような気がします・・・大きなお世話かもしれませんが。

(六)

「我」をなくし、無心に施術せよ。
増永師の著作の中で再三、出てくる表現です。

フルフォード博士も同じような内容のことを述べております。

接点のない両巨頭が同じような結論になるということは、おそらく真実に違いありません。

私の後半の施術家人生というのはこのテーマを追っかけてたと言っても過言ではないでしょうね。

無心を心が無いと解釈すれば、機械に勝るものはなく、マッサージチェアが一番効くことになる。そうじゃないことはご承知の通りです。

では無心とはどのようなことをいうのでしょうか?
小生、これを「忘我」と解釈しております。
 
人間である以上、心をなくすことはできませんし、「我」をなくすこともできません。
そんなことできる人は化け物か、バカ者のどちらかでしょう。

したがって、専心することによって、無我夢中になる、所謂「我を忘れる」=「忘我」の状態で施術することが凡人として出来る精一杯のところだと思っているのですが・・・

忘我の状態で施術できるとなれば、少なくとも、焦りや疲れや、意欲の減退や、逆に功名心などとは無縁での心境で行うことになりますよね。

一つ一つの操作に誠意を込め、相手の身体から感じられることに夢中になっていく。治るだろうか?と不安も感じず、治してやる!という邪念もなく、あるのは今現在その瞬間の行為のみ。

確かに、本当に、嘘偽りなく、増永師が言っていることは真実です。
このような施術に経絡は反応するのです。

経絡と表現するのはその方が分かりやすいからで、生命力でも良いし、治癒のエネルギーと呼んでも構わない種類のものです。

施術というのは、生きている人間が生きている人間を対象に行うため、そこにはどうしてもスピリチュアルな部分が入ってきます。

それを単に施術者と受療者との相性と呼ぶ場合もありますが、もっと突き詰めれば、ある種の波動的共鳴が起きやすい者同士なのか、そうじゃないのか・・・ということになるのではないでしょうか。

この時、施術者の「我」が強く、あるいは邪念があれば、共鳴できる人の範囲は狭くなるでしょうし、逆なら、広範囲に渡るでしょう。

ここに「我」をなくそうとする意義があるように思うのです。

さて、この部分だけを突出して論じてしまいますと、まさにスピリチュアル系そのものになってしまいます。施術は物理的な技術を駆使して行うものですから、技術軽視とも取られかねません。

言いたいことの本質はそうじゃない。
技術を練磨するのは、その技術を駆使するのに意識が働かないようにするためだと思います。

ほとんど無意識のレベルで技を駆使できるところまで技術を高めていくことに技の本質がある。これを「筋トーヌス状態で行う施術」と増永師は表現しておりますが、言い得て妙だとは思いますね。

もともと“技術”とは人工的で作為的なものなのですが、これを訓練(っていうか慣れ)によって、無意識化することを練磨と呼ぶわけですよ。

だから、疲れる施術や力が入った施術では意識が働いてしまうので忘我にはなれません。したがって、経絡は反応しない・・・昔から皆そのことをよく知っていたのだと思います。

足揉みの世界で特に顕著なのが「ビギナーズラック」
初心者がビックリするくらい効果のある施術をすることがある。

言われた通りの施術をすることで精一杯!当然、邪念もなく、余計なことも考えない。一生懸命やるしかないのが初心者です。

この心の有り様が経絡を反応させるんです。

やがて慣れてくると、施術自体は上手くなるのですが、大した効果がなくなる。
これを心理学用語を転用して「プラトー」(高原、踊り場)と呼びます。
このプラトーを乗り越えられる人は実は数が少なく、全体で1割にも満たないでしょう。

このように心の有り様は非常に重要です。
技術があるレベルに達したのちはすべからく術者の心の問題となります。
心の問題にゴールはありません。だから、いつまでたっても勉強と・・・そういうことになるわけ。

(七)

心の問題、有り様を扱う文章は書きづらい・・・
まあ、不得意分野と言っていいかもしれません。

しかし、施術家の心の有り様が如何に施術に影響を与えるかを考えると、書きづらいながらも、誤解と偏見を恐れず、書かねばならないという妙な使命感を感じるのです。

施術家が受療者を前にしたとき、あるがままに診ることがまず肝要ですわね。
気負うこともなく、臆することもなく・・・
 
これを増永師は「待ちの姿勢」と呼びました。
待ちの姿勢とは文字通り、受動的であり、決してこちらから向かっていくという戦闘的なものではありません。

人生は戦いですから、会社生活の中で「待ちの姿勢」を貫くと、えてして「指示待ち族」と軽蔑される恐れがあります。
 
率先垂範!自ら目標を定め自ら向かっていく!
会社員はこのようなタイプが好まれます。もちろん、幹部もトップも。
 
ところが施術家が受療者を迎える態度というのはそういうものではありません。
弱みは隠すもの。弱みを突いたら、かたくなにツボを閉ざします。
虚が現れてくるまで、じっと待っていなければなりません。

鳴くまで待とうホトトギス・・・どちらかというと家康的な態度でしょう。
能動的な受動的態度という言語矛盾しそうな複雑な心の在り方なんですが、このコツを会得しないと施術家として大成しないと思います。(どのような流儀でやるにせよ)

そして施術に没入していったとき、必ず勘が働くときがあります。
あっそうか・・・この人はこうだ!ここなんだ!虚が見えた瞬間です。

このとき経絡が反応しないはずはありません。
その瞬間、受療者はストンと落ちてしまって前後不覚になること度々。
(おい、寝るなよ~)

単に気持ち良くなって寝るのと、全経絡が活性し、その働きを意識が邪魔しないように自ら意識を遮断するのとでは現象は似ているのですが、本質が違います。
 
この違いが分かるのは、本人よりもむしろ施術者なのです。そういう施術を繰り返し行っていると分かるようになるものです。

 
神経系が陽の働きなら、経絡は陰の働きですから、身体が休息状態のときに働きやすいものです。それで副交感とほぼ同列に論じられることが多いのですが、正確にはそれとも違い、もっと原始的、細胞的なレベルのものです(といっても分かんないでしょうけど)。

客観的な検証はそれで症状に改善があるかどうか、でしょうね。
単に寝ているだけなら、ない!
全経絡が活性して意識がないのなら、何らかの改善があります。
(メンケン反応ということもあるけど)

いずれにせよ、経絡(治癒システムの発動)はある条件下で最高活性となり、その条件の一つが施術者の心の有り様であることは間違いないと言えるのです。
これは流儀を問いません。

(八)

人間っていうのは心の持ち方次第で、普段、思ってもいなかったような頑張りができるものです。

病は気からという言葉があるように、少々のことなら気力で吹き飛ばすことも可能ですし。

ところが、それが全然通用しないこともある。

所謂、闘病(病と闘う意志)は結核には功を奏するのに、ガンには逆効果になる場合が多いと言われています。ガンを克服した人達に共通するのは闘病的態度というよりもむしろ諦観的な一種の悟りの境地に似た心持のようです。

戦った人はまず敗れる・・・多分、ガンは戦うべき外敵ではなく、許すべき身内なのでしょう。

まあ、それについてはまた書く機会があれば書きたいと思います。

さて、人間の精神力というのは、一時的には(多分一年くらい)は張り詰めていられます。身体が丈夫なら、健康にも全く影響なく・・・・

しかし、張り詰めていなければならない原因がなくなったとき、一気に反動が来て、今までの分を取り戻すかのように、眠いし、だるいし、やる気が起きないしで廃人のようになってしまう例が多いわけです。(極端な例はウツでしょうな)

これが頑張り過ぎた後やってくる「燃え尽き症候群」
そうした状態になっている人に「頑張れ!」と言ったら、精神の内奥から反発されますよ。本人も反発していることに気づかないくらい心の深層で反発するわけ。

充分に頑張ってきて、もうこれ以上何を頑張れというのか・・・反発するというより悲しくなるかもしれません。

励ましの言葉がいつも救いの言葉にはならないのです。

ここから立ち直るには本人が気づくしかありません。しかし、自ら気づく僥倖は誰にでも期待できるものではありませんね。そこで、精神科医や心理士なりが、気づく方向に持っていく・・・カウンセリングは非常に有効な所以です。

時々、施術の際、(この人張り詰めているなぁ)と思うことがあります。対面で行う足の施術で感じやすいのですが、もちろん全身施術の中でも感じること度々。

そういうときは、あえて言葉にしないで、(いや~頑張ってんだね~、もう無理することないよ~、芯からくつろいでください・・)と身体(経絡)に言ってあげると、そこからガガーッと緩むことがあって身心一如とはよく言ったものだなと再確認します。無意識で色んなことを感じているんですね。

人が人の身体に触ることの意義をあらためて感じます。

いよいよ、限界に近付いてきたら、言葉なんて要らないんです。ただ触られるだけで癒されていく・・・

究極の癒しは、臨死時、ONEと一体となることだと言います。
ONEとは宇宙の究極的存在、簡単に言えば神様かな。

体験者の話によると、このときの一体感は至福としか言いようがなく、あらゆる言語表現を拒絶するそうな。ボクは体験者じゃないので何とも言えませんが(またそんなことがあるのかどうかも分かりませんが)、少なくともそう証言する人がいるところを見ると、一体感に至福の癒しを感じるのは人間の習性なんだろうなと思うわけ。

個として分断されているのが今生の定めだとすれば、一時的であっても他者との一体感を得させしめる我々の仕事の意義は大きいですよね。

興味本位や金もうけの姿勢を廃せねば罰が当たるというものです。
ただでさえ、業が深くてこんな仕事をしているというのに・・・

小生は施術の際、常にその人と一体化していくことに没入していきます。
それが非常に上手くいくときと、気が散って全然ダメなときがあります。

この違いがどこからくるのか未だに分かっていないのですが、この成否は自分の疲れ具合と効果の違いによって示されますね。

上手く行かないときはやっぱ疲れる・・・効果もイマイチ・・・
解放感がない・・なんとなく身体が詰まった感じがするものです。

稀に没入できたときもこういう感じを受けるときがあります。
そういう場合は受療者の身体が酷く傷んでいるときですね。
(あ~こういうとき、施術者の身体もやられるんだろうなぁ)と思いますね。

施術者は自分なりの解消法を持っていなきゃいかん所以です。

(九)

補瀉(ほしゃ)

補うことと瀉することなのですが、淵源は陰陽理論に遡ります。

結局、歪みの正体とは「不足」と「有余」の二つしかありません。

何が不足し、何が余っているのか・・・・中々概念的に難しいのですが、古来東洋ではこれを「気」と呼んでいました。

有余の気を「邪気」、不足をそのまま「正気不足」と。

もう少し科学的にいえば、細胞の原形質流動の中でゲル化(コリ)したまま固まった状態が有余、つまり邪気充満と言えます。

また同じく原形質流動の中でゾル化したまま力が入らない状態が正気不足です。

前者を「実」と呼び、後者を「虚」と呼ぶのはご存じのとおり。
即ち、虚実補瀉。虚を補し、実を瀉する。

虚実補瀉なくして、鍼術も手技もあり得ないのが東洋医学の基本思想です。

手技は安全ですから、そんなことを考えなくとも、効くことは効くし、少なくともリラクゼーション効果はありますから、特に不都合はなかったのでしょう。

ただ、カイロプラクティックのように鋭い瀉法を主体とする手技体系はリスクがありますので、違う角度から勉強、修練を積まねばなりません。

昔、事故が多かったのは、経験不足もさることながら、瀉を支える補の手技が充分じゃなかった為でしょう。瀉だけで、安全に効果だけを得さしめるには相当な経験が必要かと思います。

たいして東洋的な手技は補が主体となりますから、安全です。しかし、この安全であることに甘え、研鑽を怠ると、如何に強い圧を使おうと単なるボディ・リラクゼーションとなってしまって、治病など及びもつきません。

補と瀉のバランスを如何に取るか、補法に裏付けられた瀉法を如何に使いこなせるかがプロの条件となるのですが、なかなかこのバランスを意識した業者にはお目にかかりません。

麻布に〇〇カイロプラクティックという施術サロンがあります。

ここの前を通りかかると、いつも「満員御礼」の札が掛かっていて、まず「空き」がありませんでした。

最初、疑いましたね。こんな連日フルハウスなんてあんのかな?
もしかして、ここの先生、怠け病に罹って、空いているのに、満員ですとかいって昼寝してんじゃないのか?

(私も時々使った手なんで、他人も使うんじゃないかって思ったわけ)

どんな先生だか、会ったこともありませんし、もちろん施術を受けたこともないのですが、  よくここの前を通ったので、気になりましたね。

で、ネットの口コミ情報を知る機会があって、書き込みを熟読していたら、人気の謎が解けました。
 
本格的なカイロの先生なのですが、我々がいうところの補瀉の技術を使っているようです。つまり、矯正術という強い瀉法(カイロですから本格的なものでしょう)とオイルマッサ系の補法(推圧も取り入れているみたい)のコンビネーションがどうも絶妙のようなんです。

一度かかりたかったのですが、なにせ、いつも満員御礼ですし、そうこうしているうちにその機会のないまま旭川へ帰る羽目になってしまって・・・残念!

補瀉の技術っていうのは、同じようなことをやっているように見えても微妙なコンビネーションによって、効果がまるで違ってきます。

東洋系の手技を標榜している施術家が補瀉を置き去りにし、西洋系の手技法家がしっかり補瀉するっていうのも面白い現象ですが(補瀉という言葉は使わないにしても)、おそらくこれからのトレンドになっていくでしょう、っていうかそうしないと生き残れないと思います。

もちろん、カイロ系の人がリラクゼーションメニューを加えれば良いというものではないし、東洋系手技の人が矯正術のメニューを取り入れれば良いというものでもありません。

自身の中で充分練り、融合させて、一つのコンビネーション系の技へと進化させて始めて使い物になるのだと思いますよ。

麻布の先生はそれを成功させているのだと思いますね。

(十)

瀉法(しゃほう)

作用の穏やかな補法だけですと、確かに安全ではあります。また、長い目でみると、漢方の上薬のような効能があり、延命長寿に資することは間違いありません。

しかし、作用が穏やかである分、長~い治療期間がかかったりもして、プロはそれをクライアントに強要しづらいものではありますね。
 
また、結果として長くかかったしても、確かな改善感を与えねば、通院してくれないでしょう。
 
アマチュアならいざ知らず、プロを名乗る以上、瀉法は必要不可欠なものである理由の一つかと思いますが、如何でしょうか。

さて、東洋系の手技法家が必ず使う手法が推圧(押圧)でしょう。
親指であったり、手掌であったり、肘であったりと使う部位は問いません。
 
実はこの推圧の性格は面白くて、基本的には補法なのですが、圧の加減で瀉法にもなるのです。
 
そのような性格から、コリを押し潰すというイメージが強かったのか、瀉法に分類されてしまいました。按法にも関わらず瀉法とは・・・二百年、増永師を除いて誰も疑問を呈しなかったのですから、如何に東洋的手技が停滞していたかが分かります。

 
按が瀉法なら、摩が補法ということになります。
理由は摩法が撫でる、さするという行為になることから優しく補うというイメージが湧いたものでしょう。

ところが摩は磨くが原義。さするどころじゃなく、磨いてすり減らすくらいのことを表しているのですから、どこが補法じゃ、と突っ込みたくなるわけです。

結局、按摩の「按」と「摩」の補瀉の取り違いから、こんにちの手技の慰安化に至っているわけで、実に数百年の年季が入っているのです。いくら増永師が論を尽くしてそれを指摘してもそう簡単には改まりません。

按法(推圧)を瀉法と認識した結果、何が起きるか・・・
圧が強めになります。それで「有余」を取り去ろうとするのですから当然です。

強い圧をかけ続けると施術者が疲弊してしまいますから、それを避けるため常に動揺したリズムで行うことになるわけでして、これがマッサ-ジハウスでよく見られる手技一般の形。
 
この結果何が起きたか?
熟練した施術者がやれば受療者がとても気持ちよく感じます。
コリも取れます・・・しかし、それだけです。治病など及びもつきません。
これで見事に手技が慰安化したわけです。

やがて、受療者も刺激になれていきます。するともっと強い圧を要求します。施術者はその要求に応えようとします。結果、施術者は身体を守ろうとしてさらに動揺したリズムで行うようになります。

しかし、それではコリの寛快率が良くないということで、小さな持続圧を入れるようになります(タメを作る、と言うようですが)。ところが指はそれに耐えらるものではありません。ここに施術者の慢性的親指イタイイタイ病が発症することになるわけでして、引退するまで治りません。

推圧を瀉法として捉えたばっかりに起きる現象でして、たった一つの取り違いがこんにちの手技業界にいかに影響を与えているか・・・恐ろしいほどです。

もちろん、ボクとて推圧を瀉法として使うことはあります。しかし、瀉法をそれだけに求めると述べてきたようなことになるわけです。

では本来の瀉法である摩法はどのようなものか?
磨くが原義と述べましたが、磨くという行為そのものよりも、磨く行為には何が伴うか、を考えれば分かると思います。

激しい動きが伴うわけですよ。故に、西洋手技のスラストやアジャストはまさに摩法であり、純粋な瀉法です。

別に関節を鳴らさなければならないわけではありませんが、受療者の身体を他律的に動かすというのが本来の瀉法です。

ですから、経絡伸展、ストレッチ、揺らす、四肢を動かす、首を動かす・・etcこれらはすべて瀉法であり、補法とのバランスを考えながらコンビネーション化すべき技法群と言えるのです。

このような視点からみれば、日本化した按摩よりもタイに伝わるタイ古式マッサのほうがはるかに按摩の原型を残しており、参考になることが多いものです。

いつぞやのブログで、増永師の施術を指圧というよりもタイ古式マッサに似ていると評したことがありますが(もちろん本質は違いますが)、増永師もまた古(いにしえ)の按摩の原理に忠実な故でもあるのです。

タイマッサの残念なところは、すでに形骸化が始まっており、商売に目ざとい業者が、按摩業法逃れにコアな部分をすっぽり落としてリラクゼーション化してしまっていることです。

タイマッサもそこに魂を入れれば、強力な療法の一つになるでしょうに・・・・・現状では期待できません。

手技は真似が容易なので、進化と退化が同時に進行していくのは面白いところですね。

ともあれ、虚実補瀉という考え方を意識するとしないに関わらず、その施術体系の中に組み入れていかないと、いくら理屈が立派でも大したものにはならないのです。

一つ一つの技はありふれていて、地味かもしれませんが、これがコンビネーションとして機能したとき、総和を遥かに超える効能が生まれてきます。

「局所的な名人芸よりも、全身的なアプローチの総和」がモノを言う病態、証は確かにあって、先人の教えというのはありがたいものだと思います。

(十一)

補法(ほほう)

「指圧の本態は瀉法である」(増永師)

これは本来、補であるべき親指押圧を瀉として使い過ぎている現状に対する批判として述べたものです。

「実按ずべからず・・・・・虚之を按ずべし」(黄帝内経)
按ずるとは正しく、押圧のことであって、虚に対して押圧を加えなさい、ということは、まさに押圧が補法として想定されているものであることは明白です。

現実問題、瀉的要素を全く持たせないで押圧することはできませんが、押圧の本来の役割を時々思い出すことは無益ではありません。

補法という語感のイメージから、ヤワな圧を想像してしまいがちですが、按ずるとは切することであって、深く食い入れることですから、底に達していないければなりません。

この感覚から瀉法と勘違いしてきた歴史があるのです。ですから、技法の外形上から、瀉であるか補であるかの区別はできないのです。

生来、手の温かい人が、「薬手」の持ち主として喜ばれたのは、手を当てるだけで補の効果が強かったからにほかなりません。

これだけ、食べ物に不自由しない時代にも関わらず、低体温時代と言われている現状では益々薬手の需要はあるでしょうね(需要は昔以上かもしれません)。

温かさと共に圧を送ると、その補的効果は想像以上で、古来より「温もり」を物理的温度以上の意味合いを持たせているのがよく分かります。

強い炎症時に温めは禁忌となりますが、手の温もりだけはどのような場合でも悪化させることはないのです。組織の再生を促す何かが手から出ているのでしょう。

さて、最近トミに感じるのですが、冷えて凝り固まっている症例が多くなっています。10年前より確実に多い。地球が温暖化しているにも関わらず、人の身体は冷え続けています。

私の手はかなり温かい部類に属していて、「薬手」とまでは行かないまでもそれに近いのではないかと思っていました。レイノー病(極端な冷え)の人などは手を当てられるだけで治っていくような気がすると言ったものです。

その私にして、温かさの供給が追いつかない・・・どんどん熱を取られてこちらが冷えていくようです。こりゃこっちが病気になっちゃうか・・・
多いんです・・・こういう人が。

補法を持ち出すまでもなく、温圧を送る重要性は熟知していますから、ちょっと困った時代ですね。

(十二)

虚実

補瀉に触れて、虚実に触れないわけにはいきませんね。

なんせ、「虚実補瀉」という一つの成句なのですから。

施術者のほとんどは虚実がよく分からないと言います。

理屈的に「実」は凸的で張って固い感じ。「虚」は凹的で力がない感じ。
これはイメージが湧くでしょう。

ところが理屈どおりにいかないことも多くて、このように物理的な感触を全く無視して虚実がある場合もあります。むしろ、こちらの方が多いくらいですから、よく分からないと嘆くのは当然なんです。

すると、虚実などは単なる概念であって、実態じゃないんじゃないか!と虚実補瀉を無視する施術者も出てくる。

まあ、それも良いでしょう。自分の人生なんだから、あらゆるものは自分で選択しなきゃいけません。

虚実は施術者が分からないと嘆くだけで、ホントは受療者の方がよ~く分かっているのです。

なんでって?
おなじみの感覚で容易に分かる・・・
虚を按圧されると、深い響きがおきます。身体の深部に到達するような。

これに対して、実への押圧はよく響きはするものの、表面を走るような浅い響きです。
 
受療者はこの深部へ到達するような深い響きを感じることによって、安心し、一種の解脱感を得るわけでして、気の早い人は速攻で爆睡します。

単に気持ち良くて寝てしまうのか、経絡反応によって寝入ってしまうのかは、実にこの違いがあるのです。

施術者も自分が疲れているときに、やはり上手な施術者の施術を受けるべきでしょうね。これを増永師は臨床研究と呼んで重視したのも頷けます。

受けてみると、確かに基本手技の中で、深い響きが起きる部位があることが分かります。

また、その部位を押されているうちに、響きが消えていくこともあるでしょう。これは虚が満足し、虚が虚でなくなった証拠です。容易に消えない場合もありますが、これは頑固な虚です。

まずこうした体験をすることなんです。

すると色んなことが分かってきます。
同じ部位なのに、押し方によって、響きの感触が違うなぁ~。
おおーこれに気づいたら、エライ!

そう!虚へのアプローチは部位だけでなく、施術の仕方、もっといえば施術者の心の有り様によって、成否が分かれてくる・・・・何度も言ってますね。
 
受け売りで言っているわけではありません。自分の身体で体験していますからね。

施術者として感じる前に受け手として感じることです。

その感覚が分かったら、基本手技の中で、そういう虚の部位が必ずあるはずだという確信のもとに施術を行うわけ。それがどこにあるか分からないから、良いのです。
 
虚がそう簡単に分からないのは天の計らいなんです。

分かっちまったら全編に渡っての真剣施術の機会が失われるじゃないですか。

己を虚しくして、気負うこともなく、臆することもなく、ただひたすら施術していく・・・
すると、施術者自身がとても気持ちよく、一体感に包まれるときがあるものです。

トランス状態というのは受け手だけに起きるものではありません。施術者もまた、そのような状態になるわけです。両者癒されるという言い方もできますね。

本当のことを言うと、虚とは施術者がこのような状態で押したその場所すべてのことをいうのです。

結局「証を診る(虚が分かる)のは二義的なものであって、いかに無心に施術をするか・・」と増永師がいうそこへ還っていくわけ。どんなベテランも名人もそこへ回帰していくわけです。

虚を探ろうとしても、絶対無理です。姿を現しません。虚は弱点でもあり、恥部でもありますから、鋭い目付きでこれを探ろうとすれば、隠そうとするのは当然じゃないですか。

待ちの姿勢という意味もそういうところから来ています。

大事なことは、施術を行っていく中で必ず虚は押さえているという確信。で、そのときに、いい加減な気持ちでたまたまあったなら、虚の反応は弱く、当然効果も薄い。

そういうことを無数に経験していくことです。

なるほど~そうか~そういうことか~自分自身で得心することができれば、一気に段階は進みます。しかし自分で得心することですからねぇ、教えようがないんだ。

小生だって失敗と試行錯誤の連続でしたから。今だって失敗します。7日前の一施術が大失敗でした。新しい技術を取り入れようとして、基本的な心の有り様を忘てしまって。

新しい技術を入れるのはもちろん悪いことではありませんが、それに気を取られてしまっては本末転倒ですね。そういう基本的な失敗を今でもします。

失敗が失敗だと分かるだけまだ昔よりマシですけど。昔は心の有り様によって施術効果に違いがあるようには思えませんでした。単なる気のせいじゃないの!みたいな。

今は如実に分かります。

気が急いているとき、功名心に駆られているとき、いずれも虚の反応率は低い。虚を押さえているにも関わらず。

治そうという気持ちもダメ。これは無意識の抵抗に遭います。「我」が入るからでしょうね。

そんなことで、虚というのは必ず、基本施術の中で按圧するものなので、むしろ施術する態度の方が大事なのです。

虚が分からないというのは、虚を探しているということです。なんども言いますが、虚は探しても見つからない。探す、探る、調べる・・・これらのキーワードでは無理。

 0個のリンゴを探して「いや~0個のリンゴが見当たらないよ~。どうして0個のリンゴがないんだろ!眼が悪いのかなぁ?0個のリンゴはどこいった?」って言っているようなものです。

0個のリンゴというのは見つけるものじゃなくて、認識するものでしょ。
認識というのは、概念的に把握するものですから、探したって見つかるわけがない。

経絡というのは治癒システムのことだと思います。最近、ほんとにそういう気がする・・・・

治癒システムを作動させるのに四苦八苦しているのが施術者の実態だと思いますね。

経絡反応とは治癒システムの発動のことだと再定義すれば、心の有り様が変わってくると思いますね。このシステムの特徴をよく掴んでおけば、あとは勝手にやってくれるわけだ。

こんな楽なことはないにも関わわず、あ~でもない、こうでもないと余計なことばかり考えて治癒機序を混乱させているのが現状でしょうね。

素直になれば良いのですよ。気負うことなく、臆することなく。
(それが一番難しいんだけどね)

ある種の初心者が驚くべき治療成果をあげることができたりするのは、治してしてやろうという功名心もなければ、治らなかったどうしようという不安もなく、言われたとおり素直に施術するからに他なりません。

それが少し経験を積んで、知恵がついてくると、欲が出てきたりして、かえって治療実績が悪くなってしまいます。悪くなるまでいかないにしても、伸び悩む。そこで技法遍歴が始まる。プロセスとして悪いことじゃありません、技法は多い方が良いし、いつか気がつく。しかし、自分には向かないと思って諦めてしまうのはあまりに惜しい。素直になるだけで良いのに。

気負うことなく
臆することなく
功名心もなく
不安もなく
ただ一押しに誠を込めて

これが本当の意味で出来たら、後はなんにも要りません。
大施術家だ。

(十三)

手当て

「手の妙用」という一風変わった本を読んだことがあります。
もちろん、絶版でして、手に入れるのは相当苦労するでしょうね。

この本の著者は治療家でも施術家でもなく(たしか教員だったような)、市井の人。
しかし、生まれつきの感性か、自分でも他人でも悪いところを触っていると、掌にジンジンとした痛みを感じ、その部位が悪ければ悪いほど、その度合は強まるのだそう。

時として、痛くて我慢できないほどの場合もあったり、手が勝手に飛び跳ねてしまうこともあるといいます。

様々な難病者に乞われるまま手当ての業を行ってきて、その集大成的な著作でした。極めて真面目な内容ですから、考えるところが大でしたね。

まず、手当ては大変に威力がある治療法であるということ。
ただし、30分や一時間じゃ全然ダメで、最低でも2時間は手を当て続けねばならないそうな。(できれば一日中!)

手当てをして、ジンジンと感じる能力は個人差があるものの、手当て自体のヒーリング能力に個人差はないといいます(無数の実験をしたらしい)

これはですね、小生、なるほどと思いますよ。
例えば、アプレジャー博士が提唱したクラニアル・マニ(クレニオ)は数グラムタッチという極めて手当てに近い圧力で行います。

しかも、博士自身が一人の患者に5時間かけて施術を行ったという記録があるくらい、じっくりと時間をかける。

その結果、現代医学でも他の療法でも救いようのなかった患者が治ったりしてます。

このクラニアル療法を知ったとき、基本的には手当て療法なんだな、と違和感なくスンナリ入ってきました。「手の妙用」を読んでいたせいなんでしょうね。

とにかく、両者の治療実績は凄いものがあって、共通点もたくさんありました。
また、東洋医学の格言に「貴ぶところを待ちて、日暮るるを知らず」というものがあります。増永師が好んで引用する格言です。

以上、バラバラにあるエピソードですが、一つの真理を指し示していることは間違いありますまい。すなわち、本来手技というのは相当に時間がかかるということ。

しかし、経済行為とは時間単位のことですから、そんな無制限に時間をかけて行うわけには行きませんよね。昔は現代より、ノンビリしていたとは言え、さすがに医者はそんな悠長には構えていられなかったでしょう。

結局、短時間で済む瀉法が考案され、その極限はカイロなどの西洋手技になると思います。15分くらいで済む場合もありますから。これはこれで手技法界に多大な貢献を為したわけですので、肯定するにヤブサカではありません。

しかし、小生の志向性というのはどうしても手当て系なんですよね。スラストのような強い瀉法も使いますけど、やっぱじっくり系なんだな。

ボクが考案した「体内浄化プログラム」はその片鱗が伺えて、実に正味2時間半に及ぶ施術です。

でもこれとて、ぎりぎりのところで妥協しているわけでして、ホントは4時間くらいかけたいときもあるんです。

クライアントの身体を触って(いや~ちょっと!すごいことになってるなぁ、こりゃ)と思うことがありますでしょ。

2時間半かけてなんとかならないものが4時間かけてなんとかなるという保証があるのか!という反論もあるでしょう。

しかし、ロングコースの臨床を豊富に持ってますと、最後の10分で一気にガガーッと緩むことがあるということを知っています。

そして緩んだあとが勝負なんです。前に書いてますが、緩ませることで目的を達成したことにはならないわけ。これが単なるリラクゼーションとは違うわけですよ。

時間がかかるのは必然なのですよ。

再び瀉法

 (一)

 瀉法がどうしても必要になるのは、関節の変位をなんとしたいというニーズがあるからに他なりません。

 肩関節の前方変位などはよく見られますし、脊椎陥没変位などもポピュラーです。

 気が付きづらいところでは、股関節の問題もそうです。

 私はカイロプラクターのように変位の方向を幾通りにも分類し、それに対応する技法を行うわけではありません。しかし変位の矯正が必要であろうと思われるクライアントさんは、ざっと粗い計算で、6割くらいになりましょうか。

 スジの歪みやら硬結やらをフラットにしていく中で、自然な形で矯正されればそれに越したことはないと思います。

 しかし、プロである以上、人為的にやらねばならないこともあるわけです。

 矯正術というと、バキバキ、ボキボキのイメージが強いと思いますが、必ずしもそうではありません。
 関節を他律的に動かしていく中で、コツンと矯正されることが多いものです。
 (もちろん、関節に関わるスジの歪みを取ってあげるということが前提にはなりますが)

 足の矯正などはまさにそうで、充分に足底や足首周りのスジを緩めて、くるくる足首を回すだけで、あ~ら不思議、入ちゃった!なんてことが起きるわけです。

 膝関節、股関節、肩関節なども同じ要領で簡単に矯正されることがあって、瀉法とはこういうことをいうんだなと・・・思います。

 増永師の功績を称えるとき、経絡思想を手技に当てはめ、精緻な理論と証体系を作り上げたことに異論はないと思います。一代でこれを成し遂げたのは驚嘆に値します。

 しかし、見逃しがちな功績として、柔道整復の技法を応用したオリジナル矯正術を駆使し治療に当たっていたとではないでしょうか。

 その無理のなさとコンビネーションの巧みさに舌を巻く思いをするのですが、この点について言及されている人を寡聞にして知りません。

 赫々たる治療実績の相当部分を占めるのは瀉法とのコンビネーションにあると、密かに睨んでいたのですが、臨床経験が豊富になるにつれ、間違いではないと確信に近いものを感じる昨今です。

(二)

 コンビネーションというのは実に大事です。

 後頭骨の際(上頚部)への押圧は、コリ性の人には非常に気持ち良さを与えられます。 しかし歪みを持つ人に対しては、イマイチ改善感がありません。(後頭骨滑動不全とか)

 そこで、それらの操作をやった後、頭を抱えて微妙に環椎-後頭骨関節を動かしますと、それこそコツンと入った感じで矯正されたりします。

 そうなると、効果が倍加しますね。

 押圧だけではイマイチ、動かす操作だけでもイマイチ・・・
 コンビネーションさせることによってはじめて、治療といえる技術になる・・・
 逆にいうと、押圧単体、関節を動かす操作単体、それ自体は何の変哲もない平凡な技で、この平凡な技が組み合わされた-つまりコンビネーションされた結果としての技は実に非凡な働きをすることになるわけでして、決して侮ることはできません。

 平凡の中にこそ非凡があるわけです。

 ボクは無料でこのブログを書いているのですが、無料だからと言って真理などないなんて考える人はいないでしょう。
 高いカネを出して買った本がほとんど役に立たないクソ本であることもある・・・
 見栄が良く見世物的に素晴らしい技であっても、的確にコンビネーション化された平凡な技よりはるかに劣ることだってあるわけ。

 ストレッチなどは害になるだけで、効果などない・・・押圧などは一時しのぎに過ぎない・・・こう主張する施術家が少なからず存在します。中には傾聴に値する理論で武装している者もいますが、基本的に東洋的世界観に縁遠い人達です。なんの変哲もない、そこら辺の草木を組み合わせることによって、証さえ合えば抜群の効果を発揮する漢方薬を作り上げてきた世界観をご存知ない。

 組み合わせの妙というのはいかなる場合も適用することができる一つの真理です。
 この組み合わせを発見することが、人類に課せられた使命であると思いますのに、一面的な見方だけで切って捨てるのは如何なものかと、他人事ながら心配になってしまいます。

 施術家はプロである以上、素人が逆立ちしても真似ができない高度な瀉法を身につけることは悪いことではありません(むしろ、素人に毛が生えた程度でプロを名乗っているよりも好感が持てるくらいでね)

 しかし、もっと大事なことはありふれた技であっても、それをコンビネーション化して自らの血肉とすることでしょう。

 関節を動かすという瀉法は、押圧という補とコンビされてはじめて威力が増し、逆の側面から考えると、押圧を生かせるのは関節への瀉法があるからに他ならないのです。

 これが補瀉の心です。

 ですから、押圧しかない施術、揉みしかない施術はダメだとは言いませんが、少なくとも医療的施術とは言えません。

(三)

 なぜ、日本において補瀉のコンビネーションが廃れたのでしょうか。

 一つは按摩の慰安化であることは間違いないでしょう。

 ではなぜ慰安化していったか・・・
 盲目の人の生活の手段として、半ば強制的に従事させらたのが原因かもしれません。

 私もずっとそう思ってきましたし、またそれもある意味間違いないことだと思います。

 しかし、そうとばかりは言えないのではないか?という体験をしたのです。

 それは温泉での施術機会でした。施術をしていて非常に違和感がある・・・なぜだろう?

 すぐに思い当たりましたね。
(あっそうか・・・クライアントが浴衣なんだ・・・瀉法が出来ん・・・・)

 そうか・・・浴衣じゃ瀉法が出来んではないか!

 日本の伝統的衣服は着物です。しかも昔はブリーフのような下着はありませんでした。

 これでは思い切って四肢を動かしたりはできませんね。そこへもってきて、施術者が盲目ですから、余計に瀉法が難しい。

 押しと揉みでしか、補瀉が出来ないわけですから、独特な施術に変化していくのは当然でしょう。

 特に押し一本で瀉を行うはキツイ・・・・親指が破壊されます・・・かなりのベテランに聞いても指が痛いと言います。

 自分の施術というものを冷静に分析できる機会を得たことは有意義でした。
(なるほど~押しと揉みだけで施術しろと言われても、今ではほとんど不可能に近いんだなぁ)と。

 要するにコンビネーション化しているわけですから、一方を奪われると施術が成り立たないわけです。何気なくやっているとさほど意識できないものですが、環境が固定されると、  俄然、その不便さと有用性が分かるものです。
 そしてこれら一連の施術のおかげで五十肩は悪化するし、不全感とストレスに苛まれることになったわけです。

 そこでの施術しか知らない施術者はそれが当たり前ですから、何の疑問も感じず、黙々と施術をしているのです。健気だなぁ~とは思うのですが・・・気の毒に・・とも思いますね。

 一生、医療的な施術とは無縁で生きるのだろうな・・・リラクセーション・ボディ・ケアとはよく言ったものだなぁ・・・(もちろん、それが悪いわけではありません)

(四)

 瀉法の花形は矯正であり、また骨が鳴る矯正音であるかもしれません。

 関節を鳴らす意味は、この正体が関節液のキャビテーションという現象であるとことが分かってからというもの、重視されることはなくなりました。

 むしろ、組織に対する損傷リスクを考えれば、これらを封印したほうが良かろうと・・・

 この考え方には一理あります。安全であることがまず第一に要請されることですからね。

 しかし、オステオパスにしてもカイロプラクターにしても、この論に組みする人達は少数派です。
 なぜなら、彼らは手技を治療手段と考えているからです。治療である以上、多寡に関わらずリスクはつきもののであり、そのリスクをコントロールすることこそ、ドクターの役目であろう、と。(あちらではドクター資格です)

 キャビテーションという現象はかなりの衝撃波を生むことになるけれども、強い衝撃派であるからこそ、長年に渡る組織の癒着を破壊できるものであり、重要な治療手段の一つになり得るのだ・・・云々。

 確かに、頑固な癒着したようなコリが一発寛解することをなんども経験していますから、この言い分もよ~く分かります。

 ただ日本においては法律での規制がありません。

 例えばカナダでは、頚椎の急激な回旋を伴なう矯正はカイロプラクターの特権事項の一つとして法律上明記されているわけ。
 日本では通達という形で、これを好ましくない技法として挙げていますが、通達は法律ではありませんので強制力がないのです。

 充分な訓練をし、そのリスクをキチンとコントロールできる見識をもった施術者なのかどうか・・・だれも保証してくれない・・ということは玉石混交で、未熟な術者も多く存在し、そして多くの事故が起きる・・・そんな図式なんです、日本では。

 そんなんじゃダメだ!てんで、なんとか法制化しようと運動するわけですが、こういう問題っていうのは利害関係が錯綜しまして、話がまとまらない。結局、現状のまま行くしかないんでしょうね。

 私自身の見解はどうかというと、瀉法を使う以上はこういう技を身につけておいた方が良いとは思います。しかし、未熟な状態で技をかけると述べたように思わね事故にもつながる・・・結局、結論が出ないじゃないか!というお叱りがあるのは承知ですが、法制の問題も絡みますので、一施術者がどうのこうの言える問題じゃありません。

 ただ、盛大な骨鳴音をさせなきゃ、最強瀉法ができないかというとそうじゃない。

 曲がる(曲げやすい)方向に関節を曲げておいて、軽く運動域を超えるようにソフトなアジャストをかけ、そして間髪をおかず、曲げづらい方向に曲げます。この方法は非常に安全で、関節を移動させている最中にコツンと矯正音が鳴ったりします。鳴らそうと思って鳴らしているのではなく、自然な形ですから、受療者に負担が掛からない矯正(瀉法)となります。

 私もこの方法は、純粋スラストがちょっと危ないなと思われるクライアントにやっておりまして、大変重宝している次第。
 前にも書きましたが、このように、増永師の技は瀉法に特徴があります。普通の指圧師なら絶対にやらない、っていうかやれない技法がたくさんあるんです。
 これが埋もれていくのは惜しい・・・あまりにも惜しい話だと思いますね。

 首もさることながら、ボクなどは足揉み出身ですから、足の矯正を行います。
 おそらく、足の矯正臨床数では日本有数でしょう。

 見ただけでどこの骨が歪んでいるか、どこをどうすれば良いのか、瞬間的に分かります。骨格全般に渡る歪みの診方はカイロプラクターやオステオパスに一歩譲るものの足に関してだけはヒケをとるものではありません。

 実は足の関節群への矯正は増永師のやり方が威力を発揮するのですね。
 応用問題として解釈すれば簡単にできます。
 普通、足首は内反方向に曲げやすい・・・だから、内反方向へ曲げておいて、わずかに可動域を超えさせ、次の瞬間外反させます。これをなんどか繰り返すと歪みの甚だしい人は矯正音とともに矯正されるのです。

 関節というのは周辺組織が柔らかくなって、かつ関節が動く中で、元の位置に戻っていくという性質があるんです。
(そうじゃなかったら、世の中の人は皆、関節のハズれた人ばかりになるよ)
 それをちょっとだけ人為的にすると、今言ったような技法になるわけです。

(五)

 神経の性質として、圧迫には強いが、引き伸ばし(牽引)には弱い、というのがあります。

 カエルを解剖し神経をむき出してにしてクリップで挟みます。それでも、神経伝達は支障なく行われるのに対し、これを伸ばしますと、たちどころに伝達が弱まる・・・

 神経伝達というのはどのように行われるかという基本的なことを知っていれば、当然の結論になるわけで、わざわざ実験など要らないくらいです。

 このようなことから、整形外科などで行われる、持続的牽引治療に対し懐疑的な見方があるわけでして、自然療法の立場からも論議の的となっているのでございますね。

 私も持続的に牽引し続けるのはどうかな?と思います。
 神経伝達が減弱することによって、愁訴が減少するのだとしたら、危険な治療なのではないでしょうか。

 しかしながら、機器を使った持続的な牽引ではなく、手技による適時間の牽引は非常に効果がある場合があります。

 スラスト的に行う場合もありますし、数秒保持する場合もありますが、いずれも人間の感覚で行われるため、危険性が少ないものだと言えます。

 生体組織というのは、モノとは違い復元力を持っていますから、一見逆操作のように見えて、理に適っていることが多いのです。

 例えば胃下垂の操作は下垂している方向に押し下げます。そして一気に離す。
 下垂している方向に下げるというのは、モノの性質からすれば逆行しているかのようですが、生体の場合はそうではありません。

 と同じように、伸ばすと縮むという性質を利用して、瞬間牽引をかけ、組織を最大弛緩させたり、逆にある種の緊張感を持たせたりするのは、生体の特徴から言って理に適っているわけです。もちろん、何ごともやり過ぎは良くないのですが、それはすべての技について言えることで、手の感覚はその限度を自然に察知するのです。
 しかし、功名心などの不純な動機が混じりますと、限度を超え、事故に至るのは過去多くの事例からも明らかで、施術家たるもの、常に自戒せねばならない事柄の一つではありますね。

 受療者を仰向けに寝かせ、足を押さえ身体を固定させて、首を一気に引っこ抜くようにスラスト牽引を行いますと、カイロ理論やオステ理論には全くはてはまることがないにも関わらず、治病に大きな影響を与えることがあります。

 これらのことを増永師は一種のショック療法ではないか?と提起しましたが、治癒力発動に繋がっていることは確かです。(実証タイプにだけ通用する技法ですが)
 この方法は危険が伴ないますので、無闇に取り入れる必要はないでしょうが、時として大きな効果が見込めるので、全く無視するというのも如何なものかと思っておりました。

 この方法の欠点は身体が動いてしまうと効かないため、何らかの方法で固定させる必要があるということです

 (助手を使うなり、設備を整えるなりで)。

 固定させているが故に効くのですが、逃げ場がないため、術者に相当な熟練が要求されると同時に、そうでなければ危険であるとも言えるのです。

 これはある種のジレンマです。安全を期せば(身体を固定しないと)効かないし、効かそうと思えば、リスクが伴ないます。基本的に瀉法とはそういう性質のものですが、それが著しく出るのがこの技法の特徴かもしれません。

 何かウマイ方法はないものかと、ここ数年くらい考えていました。おそらく潜在意識で考え続けていたのでしょう。
 あるとき、百均屋さんに行って買い物をしていたら、滑り止めシートというものが売っていました・・・なんだ?これは?

 文字通り滑り止めシートで、それ以上の説明は不要なのですが、ピンと来たわけです。
これを施術ベッドに敷いたらどうか?
 百円ですから、迷う金額ではありません。早速、2枚ほど買いまして、ベッドに敷いたわけです。その上からバスタオルを敷くと、これがズレなくて、中々按配が良いのです。

 そうしておいて、人を仰向けに寝かせ、牽引してみると、絶妙に固定され、かつ絶妙に力が逃げます。安全性と効力とを同時に手に入れた瞬間です。
 こんな些細なことで・・・こういう些細なことをノウハウというのでしょうね。

 頭の中だけで施術のことばかり考えても、一向に解決せず、滅多に行かない百円ショップで解決したのですから、面白いものです。

 後に、このシートはDIYなどでフリーサイズのものも売っていて、ポピュラーなものだということを知りました。(なんと世間知らずな!)

 世に応用のネタは付きまじ・・・・
 自らの工夫によって難題を解決することは施術の世界に限らず、楽しいことです。
 時々、現場や本の世界から飛び出して、市場に触れ、自然に触れ、様々な刺激を受けることも重要なことなんですね。あらためて思いました。

そういう意味では全く違う環境に身を置く・・・つまり旅行も大事なのかもしれません。

腰と呼吸

 呼吸の重要性は言わずもがなでしょう。

 整体臨床的にも呼吸が正しく行われているかどうかは、非常に重要な問題となります。

 呼吸を助けるのは当然ながら呼吸筋とか呼吸補助筋とか言われる筋群ですから、それらの筋群が凝っていたり歪んでいたりすれば、その人の抱える問題の所在を掴む手がかりとなるわけです。

 腰方形筋(ようほうけいきん)という横腰部の筋肉があります。抗重力筋(姿勢筋)の一つで、しばしば腰痛の元凶になる筋肉です。

 この筋肉、腰という漢字が使われておりますが、実は腰筋ではなく、腹筋の深層筋の一つ。あまりにも深部にあるため、腹部側からはもはや届くことはありません。腰の横からアプローチするしかないわけです。

 さて、この腰という漢字に惑わされると、この筋が呼吸補助筋であることを見落としてしまいますね。

 そう、実は腹筋である証明でもあるのですが、その一部は横隔膜に付着し、呼吸の維持に一役買っているのです。(これは普通のテキストには省略されていますけど)

 もしこれが凝り、短縮してしまいますと、横隔膜での呼吸運動が阻害されて、上手く呼吸が出来なくなります。また逆に呼吸器系疾患の持病を持っていると、この筋に影響を与え、負担をかけることにもなりかねません。

 そこで、臨床的には、喘息等の呼吸器疾患を持っていて、なおかつ腰痛もしくは坐骨神経痛様の痛みを抱えている人の疑うべき筋のトップリストに入ってくるのです。

 この筋が歪むと殿部筋のうち小殿筋や中殿筋に影響をあたえますから、益々、腰痛や坐骨神経痛やらの症状が深くなっていきます。

 で、このことは逆にも言えることで、先に臀部筋のダメージがあっても腰方形筋に影響を与え、呼吸器に影響を与えます。

 臀部筋に先にダメージが来る場合というのは、股関節異常からもきますし、臀部への皮下注射の失敗からもきます。
 そして何よりもモートン足からダメージされてしまいます。

  少しく経験のある術者なら、腰を揉むと呼吸が楽になるという現象を知っているかと思いますが、それは以上のような理由があるからに他なりません。

 この筋をダイレクトに攻めますと、かなり痛いので普通は起立筋を通して、痛気持ち良い程度から始めねばなりません。

そこから解して徐々に腰方形筋を緩めていけば不快感なく、腰方形筋の機能は回復されていくでしょう。

 フルフォード博士がいうように、正しい呼吸は長命の秘訣であることは間違いありませんから、定期的にこの筋のケアーをしていけば無用かつ不必要な病気は防げるはずです。

 誰もが見落としがちな、呼吸補助筋としての腰方形筋。
 隠れた機能に目を向け、臨床に生かすことが肝要かと思う次第です。

姿勢筋

 「姿勢筋」またの名を「抗重力筋」ともいうこの筋群は整体臨床的にはトラブルメーカーなのです。

 姿勢を保持するというのは、中々の重労働でありまして、ましてや下手に感情というものを持っていて、かつ二足歩行する人間様は、絶妙なタイミングで姿勢が乱れるものです。

 心の有り様によって姿勢って変わりますからね。

 逆に姿勢を正すことによって心をコントロールしようとした人間の作法の歴史みたいなものもあって、ここら辺を追求していくと、中篇の論文くらいにはなってしまうので、それについては触れないで置きます。

 さて、この姿勢筋の代表的なものを挙げると、前面にはお馴染みの「胸鎖乳突筋」「大胸筋」「腸腰筋」に「大腿直筋」等。背部には「僧帽筋」に「肩甲挙筋」「脊柱起立筋」「腰方形筋」「梨状筋」「ハムスト」等。

 勿論、運動に参加しないということじゃありません。主な仕事は重力に抗う、つまり姿勢を保持するということに重点を置いた筋群ということになるわけです。

 これらの筋群の特徴はもしトリガーポイントが出来て、それが活性化すると、離れた部位に関連痛を起こすってことでしょうか。

 ですから中々原因が掴めなくて、誤診しやすい筋群でもあります。

 頭痛の大半は僧帽筋が原因だし、耳なりや目眩の過半は胸鎖乳突筋の問題だし、坐骨神経痛様な痛みの相当部分は小殿筋が原因ですわね。

 要するに因果関係がよく分からない部位に症状が出てしまうので幻惑されてしまうんですね。古人はこれを経絡という発想で、突き止めたんですが、昔の人はなんというか、解剖学なんぞ知らなくとも、直感力が冴えていましたから、的確に問題の所在を掴むことが出来たわけで、現代人は知識量は増えても感が鈍っているので、かなり熱心に研究していかないと、臨床上手の施術家にはなれないと思います。

 幸いにして色々体系化してくれている先人達がいますので、律儀に勉強していれば、ソコソコ治せる施術家になれるし、それに経験が相まってきて、気がつくと名人級にもなっていたり、オーマイゴットハンドになっていたりもするから、“倦まず弛まず”の人が一番強いな、と思う昨今です。

 勉強の方向が間違っている人と挫折に弱い人はモノにはなりません。これはどんな世界でもそういえるのでしょうけど。

 それはさておき、これら姿勢筋群は、常に負荷がかかっていて休むことを知らないので、微妙な狂いから、歪むんですね。心の有り様が反映されやすいわけだから、ストレスに敏感に反応して収縮する筋群でもあるし。

 これら筋群を歪ませない方法はたった一つ。
 リラックス!リラックス!力まないで力を抜いて、平常心で、穏やかに、不安を覚えず、悩まず、人生を楽しむこと。

 まあ、これが一番難しいんだけどね。人間っていうのはどんな立場の人でも勝手に悩みを創出して、自分で自分を縛るものですから。

 それがあるから進歩向上があるといえばあるんですが、モノには限度というものがあって、いつも緊張している人やクヨクヨマンも大勢いますから、そういう人達の仲間入りをしないことですよ。変に楽観主義も困るけど、まあそこらへんは常識の範囲で。

 さて、今日は一番不得意なことをやらねば・・・IP電話が引かれたので、FAX電話機の設定など色々・・・をマニュアルと首っ引きで格闘です。

 マニュアルを読んでコツコツ理解し、設定していく作業なんて、スタッフKに任せっぱなしでしばらくやったことないもんな。

 考えただけで姿勢筋に歪みがきます。

施術による手指の痛み

 バーンアウト・シンドロームとはそのまんま、燃え尽き症候群のことですが、街のマッサージハウス等、手技による癒し系サロンに勤めた人の平均勤続年数は3年であるからして、彼ら彼女らは3年で燃え尽きることになっちゃうわけです。

 単に店を変えるというだけなら、燃え尽き症候群ではありません。
 もう二度とこの業界で働くのは嫌だ!あるいは、働きたくともカラダが・・・もう無理・・・という人達のことです。

 最大の要因は「指を傷める」といことなのですが、ある種の洗礼みたいなものでして、慣れないと痛いわけだ。

 しかし、3年やって尚痛いというのは問題です。やり方が悪い・・・それに尽きる、と思っておりました。

 ところが、流派によっては、指が痛いまま、それに慣れさせるトコがあるということを知ってビックリ!

「えーっ!ずっと痛いままなの!」
「遊びじゃないんだよ、仕事なんだから!この仕事を続ける限り、痛いのは当たり前だろ!」

 これを複数のベテランから聞いて、いくら他人の流儀にケチつけないとはいえ、思い切りケチつけたくなりましたね。

 ずーっと痛いのはそりゃマズイわ・・・要するにカラダの一部が破壊されたままでいるということですからねぇ。

 朝起きたときは痛くて、指が強ばって押せないくらいなんですって。でも、一人施術すれば慣れて、痛みを感じなくなるらしい。

 昨日、今日入った新人じゃないんですよ。もう何年もやってるベテランがそんなこというわけ。そこの流儀はそれが当たり前で、誰も疑問を感じないらしい。
 指が痛くて辞める!っていったら、「根性のない奴だな、そんなんじゃ、どこに行っても通用せんぞ!」と捨て台詞を吐く幹部がいて、嫌な思いをするらしいね。

 そこのチェーン店の創業者がそういう指の使い方をしていたらしく、それに右倣え、てなもんで、未だにそのコダワリがあるそうな。バカか・・・

 「癒し系」というのは、ある意味そういう厳しさがありますね。
 これが治療系なら、クライアントの症状を解決してナンボの世界ですから、「ボクはこういう押し方にコダワリがあるんですよねぇ」なんて言って、さっぱり改善されなきゃ、それこそ「オマイ、ばかだな・・・」と言われてしまいます。
 極端な話、道具を使っても、何を使っても良いから結果を出す、というスガスガしさがありますでしょ。

 癒し系は結果といっても「いや~気持ちよかった!楽になったよ~」程度の話で良いわけですから、ヘンなところにコダワリが出てくるんですな。

 そういう指の使い方は・・・そりゃどんなに鍛えても指を傷めるわ・・・と思いました。
 それだったら、肘を使ったほうが良いし、道具を使ったほうが良いのですよ。

 ただ、肘も道具も指よりもはるかに難しいのですけどね。指が一番、フィードバック機能が働いて、微妙にポイントや力加減を修正できるからでして、肘は指よりも鈍いのは当然として、道具に至っては、感覚のない道具を通してのみ、つまりその道具を握っている腕の感覚のみで、修正加減を行うわけですから、難しいのは当然。

 力加減もポイントも考えず、闇雲に力揉みすればよいという施術なら(昔の足もみネ)、まあ良いのですが、カラダの施術はかなり難しい、とは言えるんです。

 逆にいうと、それが苦も無くできるようになれば、一人前ですよ。

 普通、癒し系で修行を積むわけで、道具を使った施術ができない環境にいますから、それを使うのに躊躇があるでしょう。

 でも上手に使えば、受け手は指とほとんど変わらない感覚で受け止めます。言わなきゃ分かんないくらいだな。

 ボクも最近は道具も使いますねぇ。厳しくカラダのカタイ人ばっかなのかもしれませんけど、頻度は多くなりました。クライアントさんは道具を使っているなんて、全然分かんないですよ。かりに分かったとしても文句を言わせないだけの、改善効果は与えていますからね。

 東急ハンズで昔買った桐製のツボ押しグッツとか、スッタフKがタイ旅行のお土産に買ってきてくれた不思議な形をしたこれまたツボ押しグッツとか・・・
変わったところでは、ご飯をよそうシャモジかな、竹製の。最近これは良く使います。

 主に肩甲骨を開くときに使うのですが、開きそうで開かない微妙なクライアントさんには威力を発揮します。笑っちゃうでしょ、シャモジですよ。

 そのうち、シャモジを使うのは整体師のステータスになったりして。
 「ねぇねぇ、あそこの先生、シャモジの使い手らしいわよ」
 「えっ!ウッソー、あの人、シャモジーなの?」
 「そうよ、シャモジーなんですって!」
 「スゴイ!今度受けに行ってみよ!」

 なわけないか・・・

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