“たまご”さんの質問(への回答)
“たまご”さんから質問を兼ねたコメントを頂きました。
コメント返し欄は字数制限があるため、本文で回答させて頂きます。
質問の内容についてはコメント欄を参照してください。
東洋医学の肝(キモ)というのは、全体性にあると思っています。
身体のあらゆる部分は常に全体と一体であるばかりではなく、心とも密接にリンクして、それを切り離して考えることはできないと。
「心身一如」若しくは「身心一如」とも言うことはご存知の通りかと思います。
またその体系を為す思想が、科学ではなく陰陽思想という哲学であるため、形而上的な考え方の入る余地もあるわけです。
所謂、「科学」的なエビデンスは東洋医学ではその発生過程を考えると、求めること自体、無理があって、その実効性は現実の治癒という結果によってのみ、判断されることになります。
したがって、若し効いたという結果があるなら、それに対しての理由付として、科学的証拠を提示することなどできません。
実はこのことが多様な考え方を生み出すのです。
「丹田に神様を思い浮かべ施術する」「押してもらいたいと思うところを想像して施術する」云々はその施術家特有の考え方であって、それもありだと思います。
間違いだとは思いませんが、唯一正しい東洋医学的な考え方だとも思いません。
実績ある施術家なら「その実績の背景にある考え方はこうである」と表明するのは自由です。解釈の入る余地は西洋医学に比べてかなり許容範囲が広いものと申せましょう。
ただし、若しある考え方が唯一絶対正しいと主張するならば、それはもはや、東洋医学ではなく、宗教です。
自分の教義に従え、と主張することに等しくなってしまいますから、教祖になってしまうわけです。
これは考え方に自由度が認められている東洋医学の長所を殺してしまうことにもなりかねない、と個人的には思うのです。
東洋医学に限らず、何らかの行為を為す場合、人というのは必ずイメージを思い浮かべます。アスリート達がイメージトレーニングを取り入れて練習に励む姿は珍しいことではなくなりました。
手技もまたイメージが重要です。
これは東洋医学の経絡に限ったことではありません。
例えば、筋肉解剖を徹底的に学んだ施術家が、それこそ徹底すれば、被服の上からでも、その筋肉の有り様がありありとイメージされてくるはずです。
経絡をやるなら、その走行がやはりありありとイメージできるくらい徹底しなければなりません。
そのイメージ力というのは日常経験の思い浮かべる程度のものではなく、それこそ、現実に目の前に存在することを実感できるほどものです。
これはどちらかというと非日常的体験に近いものですから、それに到達した者は何か特別な力が備わったと勘違いしやすいものですが、徹底すれば誰でも身につくものです。
優秀な外科医は難手術の前、充分にイメージトレーニングをするそうです。仮に本番で不測の事態が起きたとしても、瞬時に対応できるとも言います。
またオステのフルフォード博士は触っただけで生命エネルギーの流れを感知することが出来るのは有名な話です。
手技法としては東洋的な手技の対極にあるカイロプラクティックにおいてさえ、達人は骨の亜脱臼をレントゲンよりも正確に触知し得るとのこと。
(でなければ単なる“鳴らし屋”でしょう)
これらはイメージの極限にある一つの到達点ではあるでしょう。
ですから、何も東洋医学だけが到達する境地ではなく、あらゆる方法論において、徹底すれば身につく、所謂「精神性の極み」になるわけですが、特別なものでもなく、その道を究めれば必然的に備わるものと言えるでしょう(ですから、人格とも霊性とも全く無関係です)
その手段として、「丹田に観音様をイメージして」でもいいのでしょうが、個人個人の個性というものがありますので、そのようなイメージが出来る人もいれば、違うイメージのほうが得意な人もいるはずです。
(無神論者なら神様、仏様のイメージはしづらいと思いますしね)
具体的にイメージする内容は実は瑣末な事柄であると思うのです。
施術者が何を習ってきたか、どのような思想信条を持つかによって、具体的に思い描くイメージが異なるのは当然です。
東洋医学は陰陽思想の臭みがあるにせよ、本質的に無宗教的ですから、万人が入りやすいものではあるとは思いますが、さらに臭みを抜くのであれば、オステ理論から入ってもいいでしょうし、カイロ理論から入ってもいいでしょう。
要は最後、具体的なイメージ力がものをいうことは間違いありません。
それをことさら、「精神性」だと強調し、主導者と同じイメージを強制するのは如何なものか、と個人的には思います。しかし、表現の自由が認められた国ですから、文句をいう筋合いのものではありません。
確かに、具体的なイメージが出来てくると、治癒効果が違ってくるものです。
それは施術の自信というところからも来ているのでしょうが、ある種の感応というものが働くような気がします。
自分の一つ一つの操作がビシバシと決まっていく感じがすることもあり、ほとんどが逸れてしまうような気がしたり、相手によって違うのですが、イメージがハマる、ハマらない、という主観が、相手もそう感じる客観性へと通じていくわけです。これが「精神性」への入り口です。何度も言いますが、特別なことではありません。
やっていくと必ずそうなります。最初は自己満足の世界で足踏みするでしょうが、やがて主観と客観の一致率が高くなってきます。
ですから、研究熱心でベテランの施術家なら誰でも感じていることなのです。
(流派が違う施術家でも尊敬できる人はたくさんいます)
個人的な意見ですが、生半可な精神世界にカブレタ施術家は好きではありません。
(それを言う前に技術を磨けよ、と言いたくなります)
or
(物質世界に生きているんだから、もう少し形而下のことも勉強しろよ)
かといって、「気」の概念や「生命エネルギー」の概念を認めない施術家も困ったものです。
(もう少し不可知なものに対する畏敬の念というか、謙虚さを持てよ)
これは個人的な好き嫌いを言っているのであって、善悪を言っているのではありません。
(善悪が判断できる、と言えるほど傲慢ではありません)
要するにバランス感覚なのですが、これは施術家個人の問題です。個人が考えていくより他ありません。





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