日記・コラム・つぶやき

愛と寛容

愛と寛容を説く宗教は多いのですが、特に教団的な色もなく、愛と寛容を生活の旨とする考え方があります。

この考え方は両刃の剣でとても危険です。
心の底から愛が満ち溢れ、ヒトを許す気持ちになれればなんと豊かな人生を送ることができることか。それについてはなんの異存もありません。

しかし、人間にはどうしようもなくついて回る負の感情もあって、そこから逃れることはできません。もしそういう感情に捉われ、それを発散できなければ、どうなるでしょう。自分の信条とは別の感情ですから、それを抑圧し、(ダメだ!こんな感情を持っては!愛を持たねば愛を持たねば)と言い聞かせるに違いありません。

しかし、それはそのまま感情の抑圧になるのです。
古来より聖人が少ない確率でしか生まれないのは、本当の気持ちでそう思うことができないという人間の本来的性によるものなのです。

理想に一歩でも近づこうとする努力は認めますが、身体的にはマイナスに働きます。或いは極端な二重人格を形成してしまうかもしれません。

かのアンドルー・ワイルも同じことを言っていて、愛と寛容の心持が病気を治すという意見に異を唱えています。

ある男が不治の病に罹り、絶望に打ちひしがれました。
その絶望のあと、その男はどうしようもなく強い怒りを感じたのです。

それは自分に対する怒りでもあったのかもしれませんし、そうさせた何かに怒りを覚えたのかもしれません。いずれにせよ、その男は怒りを爆発させました。凄い勢いで怒ったのです。そして、その怒りを解放させ、落ち着いたときから快方に向かい、病気は完治してしまいました。著作に載っている例です。

負の感情も抑圧してはいけないのです。
しかし、怒りは回りに迷惑をかけてしまいます。悲哀を感じて泣くというのも人前ではできません。当然ヒトに迷惑がかからないような環境での感情開放が前提になるのですが、とにかく抑圧してはいけません。

社会正義を追求するとき、不正に対する強い怒りが原動力になります。
悲しみは他人に対する深い共感を覚える手段にもなります。

このように負の感情でさえ、ヒトを成長させる原動力足りえるわけですから、その感情を恥じる必要もないわけで、むしろ抑圧こそがヒトの成長不全を促し、かつ病気にさせてしまう原因なのです。

ただし、繰り返しますが、ヒトを不快にさせる環境での爆発は帰ってマイナスにはなるでしょう。

故橋本龍太郎元首相は「瞬間湯沸かし器」との異名を奉られたくらい怒りっぽい人であったそうな。官僚ともタイマンで議論できるほど有能な政治家だったそうですが、仲間内からは極端に嫌われていました。不遇の晩年を送ったのはご承知のとおりです。

管直人氏は政界随一の論客と言われていますが、通称「イラ管」(いつもイライラして怒っている)と呼ばれ、実力の割には人気が出ません。

このように感情のコントロールは人間関係がある以上、不可欠なものですが、コントロールと抑圧は別物なのです。

無理やり抑圧している人には2つのタイプがあります。
一つは人間的な輝きを失い能面のような顔つきになるタイプ。
一つは愛と寛容を口にしながら、とめどもなく愚痴をいうタイプ。
どちらにせよ、感受性が鈍いものです。

ある介護士はストレスがキツクなってコントロールが出来なくなりそうになると、リネン室に用意してあるパンチングボールを思い切りひっぱ叩いて、何事もなかったように笑顔で仕事をするのだそうです。

こちらのほうが余程健全でしょう。要介護者を引っ叩いてしまったら、大変な問題です。

優しくしなければならない、愛を持たねばならない・・・
~ねばならない、かくあるべき、という理想論は一種の呪縛ともなりうるのです。

だから両刃の剣となって、あるときは自分を傷つけてしまう。
真面目な人に多いのですが、真面目がいいとは限らないわけです。

いい加減は良い加減でもあるわけで、本来、中庸の精神のことを言ったものでしょう。
いい加減ではなく良い加減を会得するにはこれもまた修行が要りそうです。
しかし、~ねばならない、という呪縛に陥るよりは建設的ではあります。